『人間の損原因』
ある文学賞で、AIを用いた作品が高く評価されたことをきっかけに、ひとつの議論が広がった。
「たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、人間の内から生まれた言葉こそが尊い。人間の尊厳を守りたい。AIの文章はもう読みたくない」
そう語る人がいる。
確かに、その感覚は理解できる。
人間にとって作品とは、単なる完成された“結果”ではない。
そこに至るまでの苦悩や葛藤、積み重ねてきた時間――そうした“過程”までも含めて味わうものだからだ。
だからこそ、「人間が書いた」という事実そのものに価値を見出す人がいるのも自然なことだろう。
しかし、「人間の尊厳を守りたい」という言葉には、どこか違和感が残る。
例えば、自動車が発明されたばかりの時代を想像してみる。
「確かに便利だが、これを普及させるには道路整備が必要であり、環境にも影響が出る。そんなものは人間の尊厳に関わるから受け入れられない」
もし、そう主張する人がいたとしたら?
しかし、現実はどうなっただろうか。
今や私たちは、整備された道路の上を当たり前のように車で移動している。
遠くへ行くことは日常になり、その便利さを疑うことはほとんどない。
それによって、人間の尊厳は失われただろうか。
少なくとも、現代を生きる私たちは、そうは感じていない。
自動車があることを前提として生き、それをただの「便利な道具」として受け入れている。
AIもまた、同じ道を辿るのではないか。
「私は自分の足で走りたいのだ」と言う人がいたとしても、それは個人の選択に過ぎない。
「そうですか。では走ればいい」――それで完結する話だ。
個人の思想を他者に強制することのほうが、よほど人間の尊厳を損なう行為ではないだろうか。
だが、ここで一つの問いが浮かぶ。
人間が便利さを追い求め続けた先には、いったい何があるのか。
移動手段が発達し、生活が効率化されればされるほど、人は動かなくてもよくなる。
現代でもすでに、家から出ずに生活できる環境は整いつつある。
その結果、何が起きているか。
運動不足、健康被害、そして精神的な問題の増加である。
もちろん、「外に出るかどうか」は自由だ。
外には危険もある。
事故に遭う可能性もある。
命を落とすことだってある。
だが同時に、外に出なければ得られないものもある。
かけがえのない出会いかもしれないし、人生を変える学びかもしれない。
結局のところ、人間は常に「かもしれない」という不確実な未来の中で選択をしている。
ならば、人間が本当に求めているものは何か。
それは――「最も良い未来を選べる力」ではないか。
言い換えれば、未来が見える道具である。
もし、そのようなものが存在し、人間がそれを手にしたとき。
すべての選択が最適化され、不確実性が消え去った世界で。
そこに、人間の尊厳は残っているのだろうか。
私個人の想像では……
「えっ? 人間の尊厳? あーそういうのもありましたねー」
と、あっけらかんとして、しぶとく生きている人間が浮かぶ。
■おわり■
4/24/2026, 1:55:30 AM