G14

Open App


 この街には、『たそがれ屋』という飲み屋がある。
 夕暮れという短い時間に、たそがれている人だけが入れる、幻の飲み屋だ。
 そこを訪れた人は、静かに酒を飲む。

 人生には困難の連続だ。 
 困難に直面したとき、人は立ち向かい、あるいは逃げたりする。
 だが時として何もできず、たそがれるしかない時もある。

 そんな時に打ってつけなのが、『たそがれ屋』。
 ここに来た人は、この店で静かに過ごして心の傷を癒すのだ。

 そして今日もまた一人、『たそがれ』を纏った客がやってくるのだった。

 ◇

「大将、やってるかい?」
 そういって暖簾をくぐるのは、タケ。
 この『たそがれ屋』の常連だ

「ははは、タケさん、また来たのかい?」
 台の向こうで、大将が苦笑いをする。
 無理もない。
 この『たそがれ屋』の常連ということは、タケには多くの苦難がを経験したという事なのだから。

「それで今日はどうしたんだい?
 また彼女にフラれたかい?」
「そうなんだよ。
 大好きだったのに……
 くそ、いつものくれよ」
「ほどほどにね」

 そう言って、大将は熱燗を出す。
 タケは失恋したとき、いつも熱燗を頼むのだ。

「それで何があったんですかい?
 お話聞きますよ」
 大将はタケに話を促す。
 店の性質上、客の愚痴を聞くのも仕事のうち。
 話すことで、心の傷が癒えることもあるのだ。
 しかし、タケは首を振った。

「いや、今日は大将の話を聞きたい」
「私の、ですか?」
 大将は驚いて目を見開く。
 愚痴を聞いたことはあっても、聞かれることは無かったからだ。

「いいんですか、タケさん?
 お話聞かなくても……」
「いいんだ。
 今日はそんな気分なんだ」
「しかし……」
「何でもいいんだ。
 もっと大将の事を知りたい」
「はは、情熱的ですねえ……」

 大将は腕を組んで考え始めた。
 一分ほどの沈黙のあと、大将は口を開く。

「そうですね……
 では私がこの店を開いた話でもしましょうか」
「お、いいね
 誕生秘話ってやつだ」
「私の若い頃、三十歳くらいのことです。
 大きな会社に勤めていたのですが、サラリーマンに嫌気がさしましてね。
 親戚の伝手を借りて、店を開くことにしたんですよ」
「へえー大胆だなア。
 俺は、そんな勇気はないよ」
「いいえ、蛮勇です。
 その証拠に妻に愛想をつかれてしまいました」
「え、大将結婚していたの?」
「昔の話です」

 そう言うと、大将は持っていたグラスの水を入れて飲み干す。
 まるで覚悟を決めたように……

「若さで気が大きくなっていたのでしょう。
 ですが妻は、そんな私を置いて家に帰ってしまいました。
 10歳になる子供を連れてね」
「大将……」
「妻は正しかった。
 案の定と言うべきか、始めてからも赤字続き。
 すぐに資金は尽きました
 引くわけにもいかないが、このままでもいけない。
 だから、他の店と違いを出すことにしました」
「それが『たそがれ』?」
「はい、目論見は当たり大繁盛です。
 喜んでいいか分かりませんがね」

 大将は、そこで言葉を区切り、上を向く。
 大切な記憶を思い出すかのように……

「そしてある程度余裕も出来たとき、私はある決心をしました。
 かつても家族にまた会おうと……」
「大将……」
「今でも覚えています。
 あの時も今日みたいに真っ赤に染まった夕暮れ時、私は妻の実家に赴きました。
 玄関のベルをを鳴らすと、出てきたのは大きくなった息子でした。
 ですが……」
「……」
「息子が私を見て『何しに来た』と……」
「それはお辛いでしょう」
「はい、私は酷いショックを受けました。
 もちろん、仕事にかまけて今まで会わなかった私が悪いのですけどね。
 私はそのまま逃げだしてしまいました」

 大将はコップを起きて外を見る。
 熱が入ったのか、大将の顔は少し汗ばんでいた。

「これで私の話は終わりです。
 おや、もう外が暗いですね。
 長く話し過ぎたようです」
「本当だ。
 早く帰らないと電車に遅れる」
「今日は奢りでいいですよ。
 私の話に付き合ってくれたお礼です」
「そんな悪いよ。
 俺から話を振ったのに。
 払うよ」
「どうぞ、今日の所はお帰り下さい」
「……大将、なんか怪しくない?」
「そんなことありませんよ」
「おい!
 いつまでまたせるんだ!」

 タケと大将が押し問答していると、突然店の奥から男の子が出てくる。
 年恰好は10歳くらい、顔はどことなく大将に似ていた。
「飯の時間だぞ、早く来い!」
 
 タケは、大将の顔をまっすぐ見る。
 大将は、今まで見たことがないくらい焦っていた。
 なかば答えを確信しつつも、タケは大将に尋ねる。

「誰です、彼?」
「私の息子です。
 実はこの店、妻の実家のものでして」

10/2/2024, 1:42:12 PM