昔、禅坊主が、樹の上で口で枝を噛んでぶら下がってるときに、衆生から仏教ってどういうものなんですかと尋ねられたらどうする、っていう話があって、フツーは僧侶なら済度のために必ず話してあげなきゃいけないんだけど、そもそも口開けてから転落死するまでの秒じゃ教えを説けるわけもなく、相手も落ちる僧侶を見るだけで教えを理解できるような才覚があるなら、こんな状況で質問してないので、さてどうすんの?とかフツーは思考に堕してしまう。
しかし、こんな手が込んだ装置を考えてる時点で、考えてる方もしっかり痴れてると思われてしまう。
語るに語れないのに、それでも口を開く、リスクを手放す、体面を手放す勇気ってこと?それともそういう手段そのものを手放すってゆうこと?知らんけど。
5/17/2025, 12:57:39 AM