にえ

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お題『きっと忘れない』
(一次創作・いつもの! 優斗のターン)


「手はグーじゃなくて、パー!」
「着地するときはつま先から。踵からじゃダメ!」
「腕は左右にぶれさせない。前後に真っ直ぐ!」
 フォームを矯正されて初めて測ったタイム、11.15。
「おい! 0.3も遅くなったじゃねぇか!!」
 俺は中村に食ってかかった。
 それもそうだろう。苦労して直しているのに、タイムが落ちたのだから。
 だけど中村は「大丈夫」しか言わない。
「新しい走り方に身体が慣れてないからだって。俺を信じてくれって。な?」
 俺は思わず「まじかよ」と呟く。
 中村を信じる? 1学期末のテスト中、答案を見ていいと言ったから信じて答えを写したら二人揃って見事に赤点を取ったのに……その中村を信じる?
 しかしこいつはどこ吹く風だ。
「それじゃあもう一回走ってみようか」
 俺に勝って野上はニヤニヤしてやがる。気持ち悪りぃ。悔しいから、一回でも野上に勝たねぇと今日の練習はやめねーぞ。
 俺は鼻息も荒くスタートラインに着いた。
 それから何本走っただろうか。
 いつの間にか顔からニヤニヤが消えた野上は、
「もう帰らせてくださいッス」
と懇願してきたが、
「いーや。今日中にお前にぜってー勝つ。いいか、手を抜くんじゃねぇぞ」
 そうやって走っているうちに野上の脚が攣って、本日の練習は終了。

「いいところまでは行ってたんだけどなー」
 中村はそう言ったけど、俺にはそうは思えなかった。
「まあまあ、そんな目ぇすんなって。
 タイムは確かに落ちたけど、一時的なもんだから。フォームのブレが無くなってきてるから、ここから速くなっていくはずだぜ」
「そう、その通り」
 部室の鍵を返すのに職員室のドアをノックしようとしたその時、背後からまだちょっと苦手な声が聞こえてきた。
「よぉヤマセン」
 中村は元気よくそいつに振り返った。
「今日ちょっと見たが、中山のフォームは綺麗になっていってる」
 そう言ったヤマセンに背中を叩かれた。
 山田先生。通称ヤマセン。定年間近の英語教師。陸上部顧問。だけどほとんど部活には顔を出さない。
 俺の英語の成績は下から数えた方が早いくらい酷い。そうなると必然的に怒られる回数も居残りになる回数も補習を受ける回数も、何もかもが全部増える。
 だから俺は、ヤマセンのことが大いに苦手だった。
 それがちょっと苦手程度にまで変化したのは、陸上部に入ってヤマセンの印象が変わったからだ。

 入部届けを提出しに行ったあの日。
 俺から届けを受け取ったヤマセンは、普段の仏頂面からは想像できないほど笑顔になった。
「そうか、中山! うちの部に来てくれるか! 体育の浜中先生が『あんなに速いのに陸上やらないなんてもったいない』ってずっと言ってて、私もお前が欲しいと思っていたんだ。嬉しいなあ」
「は、はぁ……」
 ヤマセンのあまりの変わりように俺は驚いてしまう。
「俺も大学までは走ってたんだぞ、リレー。だけど膝を壊してからは泣く泣く引退してなぁ」
 意外だった。文系だと思っていたヤマセンが、実は体育会系だったとは。
「ここに赴任してからは陸上に不真面目な奴ばかりで辟易としていたが、そうか、中山が……うんうん」
 そう言って目頭を押さえた。
「定年までに、この学校が1位になれるのを見れるかもしれないと思うと、嬉しいねぇ」

 まだちょっと苦手だけど、ヤマセンにはきっと忘れられない走りを見せてやりたい。
 俺は、そう思った。

8/20/2025, 11:07:39 AM