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未知の交差点


 窓枠に足を掛けたとき、1枚の紙が顔に張り付いてきた。おかげで足を崩して一大決心が台無しになるところだったが、それは何とか免れた。邪魔をしてきた紙を手に取り、座り込んでぼんやりと眺める。


 もしも悩みがあるならここで話してみませんか?
 ここは未知との交差点、異世界へと繋がる電話ボックスです。 
 全く違う悩みを持った者同士、自分を見つめ合ってみませんか? 

  注意
・お相手の怒りをわざと買うような言動はお控えください。干渉をしてくるタイプの利用者様もいらっしゃいます。
・冷やかしは決してなさらないでください。見つけ次第スタッフが取り押さえ、制裁を加えます。
・お相手が見つからなかった場合は管理長が対応します。


 下には小さく地図が描かれている。ふざけた紙だ。と思った。そういえば最近この電話ボックスについてテレビで紹介されていた。何でもスタッフが異世界の住人のフリをしながら相談に乗り、メンタルケアをしてくれるらしい。
 コンセプトカフェみたいで嫌だな、と思った記憶がある。それでも悩みを抱えていたらしいアナウンサーはボロボロ泣きながら電話ボックスから出てきた。よっぽど心にしみる何かがあったようで、その後は感想を述べることすらマトモにできていなかった。どっちか知らないがテレビって存外にブラックなんだなと思った。
 ネットで調べてみてもその電話ボックスに冷やかしで行ったという者は一人として見つからず、また、体験した人の話も出てこなかった。
 大義をなす前に、小休憩するのも悪くないかもしれない。そう思って地図の通りにふらふらとなれない昼間の町を歩いた。

 町の外れにあたる交差点の少し奥にその電話ボックスを見つけた。見た目は普通の電話ボックスと変わらない。中にある緑色の電話も、どこか懐かしささえ覚えるほどだった。しかし確かに手元にある紙と同じものが扉に貼り付けられていた。俺は扉を開けて、受話器を取り百円玉を入れた。すると、すぐに電話が繋がる。

《もしもし、聞こえますか?》

 ゾワリと鳥肌が立つような異常な声だった。頭に響くようで、うまく聞き取れないのに意味が分かるのが気持ち悪かった。これ、ほんとにスタッフなのか?

「……はい」

《はじめまして私はえ1えのんbです》

「俺は大山雪緒です。よろしくお願いします」

《よろしくお願いします。今夜は何があって電話をしたのですか?》

「今夜?」

《ああ、失礼。こちらは暗いもので……》

「そうなんですか。こっちはまだ明るいです。不思議。異世界にも朝や夜があるんですね」

《いいえ、私はその、よくこの電話を利用しますから色んな世界の話を聞くんです。だからあなたの声を聞いて『今夜』と言ってみました》

「声でわかるんですね。すごい。よく利用するということは日常的な悩みがあるんですか?」

《あはは、そうですね。日常的というか、日常に対してというか。その、声の話もしましたけど、私は忘れるのが苦手で……。普通こっちでは嫌なことがあれば病院に行って記憶を消してもらうんです。こっちの世界には忘れるのが苦手な人が多いので》

「それは便利ですね」

《はい、きっと便利なんでしょうけど、私は、忘れるのも勿体ない気がして……記憶を消してもらう気には慣れないんです。どんなに嫌なことでも、その記憶がなければ次につながらないんじゃないかって思ってしまって……》

「でも、何度も同じことを繰り返してしまう。俺はそうです。忘れたいと思っても、忘れてはいけないと結局は思って、でも似たような失敗を繰り返す。気にする意味なんてもうないんじゃないかと思うけど、そう思い切ることはできない……みたいな」

《そう、そんな感じです。もう、どっちつかずのままでいるしかないと思うのですが、誰かに話すのもやめられなくて…………それに、もう一度話してみたい方がいるんです》

「……! それは一体?」

《この電話の管理長さんです》

「お相手がいないと管理長さんが話してくださると書いてありますが、そんな時あったんですか? いろんな世界と繋がるのなら、ずっと誰かしらが話しているものだと思っていました」

《私が初めてこの電話を利用したときはまだできて新しかったのか、管理長さんが対応してくださったんです。それ以来、もう一度話したくて何度も何度も》

「で、話せたことはあるんですか?」

《それが、まだ一度もありません。でもわざとのような気がするんです。私がいろんな方たちと話して自分の中で折り合いをつけるのがもっとうまくなるようにってことなのかなって》

「なんだかロマンチックですね」

《ふふ、そうですね。ということで、私が話してばかりになってしまいましたし、あなたの話をお聞かせ願えませんか? どうして、この電話を?》

「さっき、自殺しようとしてたんですよ。高いところから飛び降りて、そしたら何とかならないかなって。そしたらこの電話ボックスについての紙が飛んできて、試しに電話してみたんです。何か気持ちが変わらないかなって」

《……何か、変わりましたか?》

「すごく、すごく当たり前なことに改めて気づきました。俺にはときどき、目の前にいる人の頭がどうもおかしいと思うときがある。どうしても分かりあえなくて、噛み合わなくて、態度が悪くて、同じ人間だと思えないことだってある。………でも、たとえ同じ人間ではなくとも、気遣いと礼を忘れなければ普通に話ができるということです」

《やっぱり距離感って大事ですよね。私も、この電話では冷静に話すことができてるんです》

「はは、俺もです」

 水滴がつうと頬を伝って、俺はこの胸中を渦巻く鮮やかな感情を知ることになった。苦しさか、悲しさか、寂しさか、その全部がぐるぐると肺よりずっと内側で渦巻いていた。

「あなたは、人間じゃないんですか?」

 沈黙が迫りくる。しまった、と思った。しかし、どうしても知らなくては思った。

「えと、俺は人間で……あなたは俺と同じ種族ではないんですか?」

《はい、残念ながら。しかし………次、もしこの電話で話すことがあったら、もっと明るい話をしましょう。そのときも、あなたの世界が昼ならいいな》

「あは、はい。……あ、ずるいですね、あなたは」

《これで私とおそろいです。気が向いたらでいい、この電話で話しごとをしてみるのも悪くはないのでは?》

「うん。そう。ですね。……今日は、ありがとうございました」

《こちらこそ、ありがとうございました。では、》

 時間制限が来て電話が切れる。俺は受話器を置いて電話ボックスから出た。
 外の風に触れた、その瞬間にせきを切ったように涙が溢れる。歪みきった視界の中、俺はとぼとぼと帰路に着くのだった。

 ああ、この胸中に滲み出すのは、未知への希望か、既知への失望か

10/11/2025, 5:53:26 PM