淡い線で縁取られた山々は遠くにかすみ、淡墨の滲む川の流れはとても穏やかであった。
川の両脇に細く鋭い線で描かれた松の葉が静かな風に揺れている。
白い半紙に墨汁で縁取られた山水画の世界で、一人の少年が川べりを歩いていた。
彼は病に倒れた母のために、隣町まで薬を買いに向かう途中であった。
真っ白な霧のかかる空の下、少年は向こう岸に立ち並ぶ松の下に不思議な気配を感じた。
渦を巻いたように歪んだ濃淡の中から、ぬっと猿の顔が覗く。
続いて虎のような縞模様の胴体があらわれ、蛇の尻尾が自我を持ったようにうねる。
鵺(ぬえ)であった。
少年は思わず近くの草陰に身を隠す。
鵺は悠然と川の中腹まで歩みを進め、その流れを感じるように歩みを止める。
白い空を見上げ、耳を劈(つんざ)くような甲高い鳴き声を上げた。
怖れに震える少年のつま先が草を揺らす。
鵺の視線が少年を捉えると、たちまち彼の体は縛られたように動かなくなった。
鵺は体を揺らしながら少年へと近づいていく。
川を抜けた鵺の鼻先が彼の目前まで迫り、荒い鼻息が顔を湿らせる。
その姿を視界に収めたまま、少年が逃げるように後ずさると、彼の頭の中に声が響いてくる。
『貴様、死の気配を纏っておるな……。貴様の死ではない。近しい者の死だ』
少年はその声の主が鵺であると直感的に悟った。
鵺の言葉に、病に伏して息も絶え絶えになっている母の姿が頭をよぎる。
「隣町まで薬を買いに行かなければいけないのです」
少年がそう告げると、鵺は再び語り掛けてきた。
『そうであったか。しかし、薬を手に入れたとて、死は免れぬ……』
「では、どうすれば母を救えるのですか」
ふいに鵺と視線が交わり、少年の身体がますます強張る。
少年は吸い込まれるように見つめた鵺の瞳の奥で、世界の果てを見た。
墨で縁取られた景色は後方に遠く、目前にはただ白い世界が広がっている。
その中にぽつりと咲く花は見たことのない『色』を持っていた。
手を伸ばしても届かず、いくら近づこうとしても遠ざかっていく。
少年はその光景が恐ろしくなり、鵺の瞳から目をそらした。
再び墨の輪郭に縁取られた世界で、あの花の残像が目前に異なる色を落とす。
『この世界の端にある、紅き落款の花を探すのだ……』
鵺は静かに告げると、再び頭をあげて鳴き声を上げた。ひゅーんと甲高い音が虚空に溶けていく。
ゆっくりと足を踏み出した鵺は、少年の前で身をひるがえし、再び川へと戻っていく。
蛇の黒い舌が、少年の前でちろちろと揺れる。
向こう岸へ戻っていく鵺を視線で追いながら、少年はゆっくりと立ち上がった。
「世界の端なんて、私には到底たどり着けません」
少年は鵺の後ろ姿に向かって言葉を放る。鵺は歩みを止めることなく『ついてこい』とだけ告げた。
少年は鵺を追うように駆けだした。踏み荒らされた淡墨の川が飛沫を上げる。
次第に深くなる川の流れが少年の足を掬い、水に浸かった部分が半紙の白に消えていく。
波に煽られ、消えては現れる自分の輪郭を何とか保とうと必死で川に抗う。
首から下が川の中に消え、波が顔に押し寄せる直前、少年の身体が宙に浮いた。
虚空に持ち上げられた瞬間、少年の身体は再び輪郭を取り戻す。
少年の腰から延びる蛇の尻尾の先で、猿の顔がこちらを見つめていた。
蛇の尻尾に導かれるようにして、少年は鵺の背中に腰を掛ける。
縞の刻まれた短く細い毛並みが、熱を持って少年の足に伝わってくる。
『この先は遠く険しい道が待っているぞ。覚悟はできているか』
鵺の問いかけに、少年は母の顔を思いながら「はい」と静かにうなずく。
少年の視界の先では、色を持たぬ夕暮れが訪れ、白い空に淡く墨が差し始めていた。
#モノクロ
9/29/2025, 7:08:21 PM