紙ふうせん

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「おうち時間でやりたいこと」

「おうち時間」、なんていい響き!
私には関係ないけれど。
朝はとにかく忙しい。昨夜のうちに今日着ていく服を選んでおかなかった事を絵理子は後悔しながら、とにかくクローゼットからこれとこれ、と選び出した。
するとブラウスにシワがあった。

チッと舌打ちして、仕方ないので、かけたまま使えるスチーマーアイロンで大きなシワを取る。
そして忙しくメイクをすると、冷蔵庫のミネラルウォーターを飲み、バッグを持って慌ただしく玄関を出る。カチリ、と鍵の音がした。

夜、カチリ、と音がして玄関が開く。
靴を無造作に脱ぎ捨てて、部屋に入るとバッグを投げ出し、ソファにどさりと座る。

体が重い。疲れが溜まっているのが自分でもわかる。
手にしているレジ袋には、コンビニで買ったチキンサラダとビールが入っている。
疲れていて動く気がおきない。
食欲もない。

ノロノロと立ち上がり、袋ごと冷蔵庫に放り込み、シャワーを浴びに行く。

メイクを落とし、髪をドライヤーで乾かす頃には、少し元気が出ていた。

タオルを首にかけたまま部屋着兼パジャマでソファに座り、冷蔵庫から出してきたビールをごくごくと喉に流し込む。
「あ~、美味しい!」そういうと適当にテレビをつける。
芸人が何かを言うたびに爆笑が起こる。
(なにがおもしろいんだか)そう思いながら
チキンサラダを食べる。が、ひとくち、ふたくち食べると割り箸を放り出す。

このところ、食欲がない。
ビールを飲み終わる頃、胃がキリキリと痛みだす。
「……つぅ」額に汗がにじむ。
横になり体を海老のように丸め痛みに耐える。
しばらくすると、痛みが去り、ノロノロと体を起こす。

そうだ、明日の服、決めておかなきゃ、と立ち上がった、と思ったら目の前が暗くなり、記憶が無くなった。


目が覚めるとベッドにいた。
だが、自分のベッドではない。真っ白いカバーの掛かった布団をかけ、腕には点滴の針が刺さり、目で追っていくと上に点滴の容器がかかっていた。

私、どうしたんだろう。そう思っていると、
「あ、目が覚めた?」と聞き覚えのある声がした。
声の方に顔を向けると、何故か姉がいた。
「……お姉ちゃん、どうしてここにいるの?」と言うと、とたんに姉のお小言が始まった。

「あんたが何時になっても会社に来ないんで電話しても出ないし、って会社の子が管理人さんに話してドアを開けてもらったら、あんたが倒れていたわけ」「あんた、急性胃炎だって。疲れもかなり溜まっていて、ほとんど食べてなかったんだって?先生が言っていたよ。」「ドクターストップ」「は?」と言うと姉が「は?、じゃないよ。点滴が終わったら帰っていいけれど少し休みなさいって。会社には少しオーバーに言ったら課長さん?が焦って、ひと月休ませる事にしたから」

「もう、会計も済ませたし、薬ももらったからここに置いておくよ。じゃあ、私も行くよ。全く、娘にご飯を食べさせていたら急に電話が来て、隣の奥さんにとりあえず預かってもらってきたんだから」と姉は一気に話すと、そこで真面目な顔になり「あんたね、会社にあんたの代わりはいてもあんたの代わりは居ないんだから、体をもっと大切にしなさいよ。これでもすごく心配したんだから」「……ごめんね、お姉ちゃん。心配かけて」と言うと「お、珍しく殊勝じゃない。しばらく、ゆっくりしなさい。」と言うと病室を出ていった。

私、そんなに体を酷使してたのかぁ。急性胃炎って何食べればいいんだろう。スマホで調べるか。

ひと月、休みだとお姉ちゃんが言った。
普段は日曜日は疲れ過ぎて、ただただ、寝て過ごしていたっけ。

点滴が終わり、ナースコールで看護師さんが来て、外しながら、「まだ顔色が悪いわね。とにかく今はあまりいろいろ考えないで体を休めてくださいね」と言ってくれた。

私は、お世話になりました、と頭を下げ、荷物置きに、姉が持ってきてくれた紙袋があったので中を見ると、薬の袋と私の服とビニール袋に入った靴、バッグがあった。バッグの中のお財布を見ると、姉が3万円、入れておいてくれた。サンキュー、お姉ちゃん。

病院から外に出た。陽射しが眩しかった。
こんな時間に外を歩いたのはいつぶりだろう。

帰りに花屋で、可愛いサボテンを1つ買った。
世話が楽そうなので。でも花が咲くらしい。

その日は、疲れてタクシーでうちに帰った。
まだ明るいし、点滴をしたので少し元気が出た。すると、グー、とお腹が鳴った
いつぶりだろ。
家に帰ると、お粥を炊いた。
卵であえてたまごのお粥にした。

フーフーと冷ましながら、ひとくち食べたらとても美味しかった。
こんなに食べ物が美味しいと思ったのはいつぶりだろう。急にポタリ、と涙が出た。すると涙が止まらなくなり、泣きながら、美味しい、と思いながらお粥を食べた。


あれから1週間、薬をきちんと飲んで早寝早起きの生活をしていたら、びっくりするくらい
、体が健康になった。
どうせならと、胃腸病の本を買い、それを見ながら少しずつ、食べられる物が増えてきた。テーブルの真ん中には、あの日買ったサボテンがある。
なかなか花は咲かない。ゆっくりでいいよ、と私はサボテンに話しかけた。

まだ疲れるので、お散歩を日課にしている。
みんなが会社で外も見ずに働いている時間に、私は街路樹を揺らす心地良い風に吹かれて歩いている。いい天気だ。

あんなに憧れた「おうち時間」が思いがけず手に入った。

私は、会社でポスターなどのデザインの仕事をしていた。

ひと月の間にいろいろ調べて、もう少し時間に余裕のある会社に移るか、自宅で仕事を受けて、働くか、それとも全く違う仕事をしようかといろいろ考えていた。

まあいい、まだ時間はたくさんあるのだから。私は今、とても人間らしい正活をしている。これもおうち時間のおかげかな。

胃はあれから一度も痛くならない。
何より、本を見ながら、食べたい物を自分の体と相談しながら作るのがとても楽しい。

やった事が無かったパッチワークを始めてみた。これが意外と楽しい。
仕事柄、色の組み合わせとかはいろいろ思いつくのでおもしろい。

趣味なんて、勤めるようになってから初めて持った。

ふと気がついたら、サボテンに小さな赤い色がポツンと見えた。わ〜!蕾だ!
「赤い花かぁ、いいね」と言いながら、スマホで写真を撮る。

私も、まだまだ人生では蕾だ。
どう咲こうか、これからゆっくり考えよう。

何しろ、おうち時間はまだまだ十分あるのだから。


5/13/2023, 11:55:04 AM