てふてふ蝶々

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診察待ちのベンチには、おくるみでぐるぐる巻きにされた赤ちゃんを抱っこしたお母さんが、我が子の寝顔を愛おしそうに見つめている。
私は赤ちゃんを起こさないように、しっかり気をつけて、少しも振動を起こすまいとそっと隣に座る。
順番に座らなければならないから仕方ない。
ほんの少しギジリとなった古いベンチが憎らしい。
しかし、お母さんは笑顔で私の方を向いて、
「大丈夫ですよ。昼間はよく眠るんです。夜に寝てくれればいいのに」
と、言いながら、また愛おしそうに我が子に目をやる。
「そうですか。よかったです。可愛いお子さんですね」
と、何も返事しないのも変かもしれないと、顔の見えない赤ちゃんを褒めておく。
するとお母さんは嬉しそうに、
「えぇ、眠っている時が一番可愛いなんて言ったら贅沢ですよね。でも、こうも夜泣きが続くと寝不足で…」
と、子供のいない私にはわからない育児の悩みを話されて、何と答えるのが正解かわからなくて、頭の中がパニックになる。どうしよう。どうしよう。
さっき来たばかりの私。このお母さんが先なんだけど、呼ばれる気配はない。何か言わなきゃと思って
「大変なんですね。」と声にだす。
お母さんは嫌な顔一つしないで笑顔。
よかった。間違った事言ってない。とホッとしたのに、お母さんは会話を続けたいようだ。
「産むまでこんなに大変だとは思わなかったわー。主人もあてにならないし、実家には頼れないしでへとへとよ。」
こういう時は、『あぁ』『いいですね』『うん』『えぇ』『おぉ!』の中から適切なのを選ぶ。
『あぁそうですね』だと冷たく感じるかもしれない。
『えぇそうですね』だと知ったかぶりみたい。
悩んだあげく
「はぁ」
と、どちらとも言えない曖昧な返事をしたが、お母さんは気にする素振りもなく、
「今日だって、診察なのに、パパは、病院に来てもくれないの。ひどいでしょ?」
そう言われても…何と返事しよう。どうしよう。と悩んでる間にお母さんの方が先に答えがでたようで、
「仕事だから、仕方ないのはわかるのよ?でも、パパとしての自覚が足りないんじゃないかって思うの。」
もう、返事なんかいらないのかもしれない。
とにかく、うんうんと、首を赤ベコのように振る。
「私が専業主婦になっちゃったし、家族の為に働いてくれてるって思って我慢してるけれど、それでも、ねぇ?」
…?ねぇ?って事は返事待ちな感じ?どうしたらいい?
そうですね?かな?旦那さんもお辛いんでは?かな?
家族と仕事の両立なんてした事ないからわからない。
どうしよう。どうしよう。私の不甲斐なさを見抜いたようにお母さんは
「あなたお子さんいらっしゃらない?」
と、聞いてくる。即答できる質問でよかった。
「はい。居ません。」
すると、途端に私に興味を失ってくれたようで、
「そう…」と言って、また我が子を愛おしそうに見つめ始めた。
良かったような、なんかお尻がもぞもぞとする居心地の悪さの中、診察の時間をじっと待つ。
隣に座るお母さんが、我が子の頬を撫でたりお尻や背中を摩っているのを横目に見る。
幸せだわって声が聞こえてきそう。
ふと、お母さんが診察に呼ばれて行った。
赤ちゃんだけを連れて。
手荷物を置いて行ってしまったようだ。
どうしよう。すぐ前にいるから教えてあげようか。
それとも、赤ちゃんを抱いているからわざと置いて行ったのかもしれない。
受付の人にだけでも伝えた方がいいだろうか。
そうしよう。
私が少し腰を上げると、ベンチはまたミシリと音をたてた。
その音で、あのお母さんがふわりと振り返る。
そして、「あぁ、やだわ。また荷物置いてっちゃったわ。駄目なママですねー」と赤ちゃんに話しかけながらこちらに来る。何かおかしい。
おかしな理由がわかるとギョッとした。
声も出なかった。
お母さんは、荷物を取ると何事もなかったように、
「ごめんなさいね。」と、私に声をかけ、
「さぁ、行きましょうね」と、赤ちゃん人形に声をかける。
しばらくして私も、診察室に呼ばれた。
彼女とはまた違う病気ではあるけれど、心の病を治すために、この病院にいる。
私の病室に戻る。
さっきの診察で退院も近いと聞いて、嬉しいやら不安やら。
あのお母さんが、病院から出られる日がくるのだろうか?ここにいた方が幸せなのかわからない。
私は、私は?
この病室からでて、どこに行くのか?どうやって暮らすのか。もう忘れてしまった。
私の世界はこの病院の中。
私の自由は、病室の中。
どうやっても、何をしても生きるしかない病室でしか生きられないのに。

8/2/2023, 11:33:20 AM