たなか。

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【月に願いを】

 月に願いを込めるのならば何を願うだろう。私はきっと今ならば帰りたくないと願う。空に向かって空虚に向かってどうか、私を連れ戻すなかれと語り掛ける。報われなくてもいい。ただ、この人の死を、永遠を、一瞬を。この目で見届けたい。そう願ってしまったんだ。だから、どうか
「連れ戻さないでくれ。」
「月に向かって語り掛けているんですか。相も変わらず、私がしないようなロマンチストみたいなことをしてくださる。」
 後ろからかけられた声に耳が反応する。騒ぐな、心臓。
「うるさいぞ。ロマンチストでも何でもない。ただの、上を向いてしまっただけの独り言だ。」
 嘘じゃない。月に、空虚に向けた独り言。大きいだろうか、いや私からしてみれば小さすぎるくらいだ。ふと、気になって、下を見てみれば大勢の人、ひと、ヒト。見るんじゃなかったと後悔してしまうほど。次の台詞は何だっけ。私は何者なんだっただろうか。
「余所見ですか、私がこんなにも熱烈な視線を送っているというのに。」
「何をする、前が見えないぞ。」
 突然、後ろから目の前を暗くされる。手で覆われた真っ黒な視界。全く、台本にはない。アドリブなんていきなりで、演技じゃなく全くの本心から出た言葉。どっちがロマンチストだ。さっきのだって聞いていない。私以外だったらどうしていたというのだろう。視界が開けると眼前に見目麗しい誰もが恋するであろう王子様、そんな風に見える奴の顔。
「近い。」
「近づけてるんです、帰らないでくださいよってお願いのために。」
 この台本の中のこいつも現実のこいつも策士だろう。じゃなきゃ、下の黄色い悲鳴が嘘になる。嘘にはさせない。だから。
「私は帰るよ。この綺麗な藤の花が見れなくなるのは残念だけどな。」
 台本の中だと、この場面はこれで終了だった。だから、安堵していたんだ。知らないわけない、この言葉。
「私としてはもう少し惜しんでくれてもいいんですけどね。それはそうと、ほら月が綺麗ですよ。」
 今なら死んでもいい。そう、思った。月に願いを込めるなんて充分
「ロマンチストだ。」
 これ以降のアドリブはなく、劇が無事に終わった後。アドリブが多くてすごかったなんて言われたけどそれは王子様に吸い込まれただけでしかなかった。学園祭の出し物でここまでやるか、なんて野暮なことは言わない。みんなが楽しんでくれたらそれでいいんだ。そうして劇中の想いを静かに月に帰ったお姫様の元に投げた。
「藤の花に酔いしれて、か。」

5/26/2023, 6:11:32 PM