このお話は1/24から投稿している連続小説『過ぎ去った未来』の第六話です。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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掌編小説『過ぎ去った未来』第六話
坂部はパチンコ屋の自動ドアを出ながら大きくため息をついた。
まるで遠い昔の過ちを忘れ去ろうとでもするように、先ほどより軽くなった財布をスラックスのポケットにねじ込んだ。
とぼとぼと夕暮れの街を歩きながら途方に暮れる。
その後、適当に選んだ居酒屋で閉店まで飲み明かし、ネカフェという簡易ホテルのようなところで一夜を過ごす。
そんな自堕落を絵に描いたような生活はいつしか坂部のデフォルトになっていった。
二十年、いや、坂部の肉体の中で社会性というダムによって堰き止められていたはずの五十年分の怠惰な性分が、その決壊によって、一気に放出されていく。
坂部はただ、人間の本能として当たり前のように溢れ出る欲望に従うだけだった。街ゆく他人にとって、坂部の人生など路傍の砂のようなもの。彼を止める者もいなければ、諭す者もない。坂部が自らの行いに違和感を抱く余地などなかった。
当然、財布はあっという間に空になり、クレカという名の魔法のカードもいつしか止まった。それでも腹は減る。
生きるために必要な原資は、川辺りの砂のように流れていく。
そんなある日、坂部は制服姿の警官に呼び止められた。
「ちょっとお話よろしいですか?」
身元を確認できるものはあるかと警官に尋ねられ、坂部は財布に入っていた免許証を差し出した。警官が免許の写真と坂部の顔を見比べて、やはりそうですか、と呆れたようなほっとしたような表情を浮かべた。
「実はね、坂部景子さんから、あなたの捜索願が出てまして……」
坂部は、警官の言い方から、恵子という女性がどうやら自分の配偶者だろうと悟った。脳裏に浮かぶのは、あの朝、坂部が目覚めたときに部屋にいた女性だった。
「坂部さん、自宅まではおひとりで帰れます?」
警官は、こちらも無理に連れて行くことはできないんでね、と眉をハの字に歪めながら口角を上げ、精一杯の慈悲を表現して見せる。
「は、はい……。大丈夫です」
坂部の答えに、警官は安堵を見せ、奥様にはこちらから連絡しておきます、と添えた。
とぼとぼと家路を歩きながら、坂部は良からぬ安堵に小さく息を吐いた。ようやく暖かい家と食事にありつける。それだけで生きた心地がした。
家にたどり着いた時には、すでに日が落ちていた。玄関を開けると、奥の部屋からドタドタと足音がして、次の瞬間にドアが開いた。あの朝の女性が心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「あなた、どこ行ってたのよ!」
恵子が怒りとも安堵とも取れない声を張り上げる。乱れた服装に伸びた髭の坂部を目にして、わずかに動揺を浮かべる。
「ずっと帰ってこなくて心配したんだから」
恵子の目には涙が浮かんでいた。まだ二度しか会っていないその女性の涙に、なぜか坂部の胸が痛む。
奥の部屋から高校生くらいの少女が顔を出す。
「帰ってきたんだ……」
おそらく娘であろう少女は、軽蔑にも似た冷たい表情でそれだけ告げると、振り返って部屋に戻ってしまった。
「ちょっと待ちなさい、詩織」
恵子が彼女の背を追うように声を荒げ、そこで初めて娘の名を知った。
坂部は複雑な心地のまま、「突然街なかで記憶を失って、しばらく路頭に迷っていた」と恵子に告げた。自分が遠い過去から突然飛ばされたことは口に出さず、家族の顔は忘れたことはなかった、と嘘をついた。
しかし、そんな嘘はすぐにばれる。何せほぼ初めて会う家族だ。馴れ初めも分からなければ、過去の記憶の蓄積もない。家族であると言う前提がなければ、恵子は単なる年増の女で、詩織はわがままなガキにしか見えない。
坂部は日を重ねるごとに湧き立つ苛立ちを、生きるため、と必死に抑えた。
ある日、恵子が「本当にあなた、真一なのよね」と不安げに漏らした。
「ああ、そうだよ」
嘘ではない。
時が経つにつれ、恵子と詩織の中にも軽蔑と不信感が膨れ上がっていくように見えた。暖かかったはずの家は、日に日に冷たさを増していった。
そして、とうとう爆弾は爆発した。給与の支払停止が引金だった。坂部自身も気づいていなかったが、当然ながら、とうに会社を解雇されていた。
その瞬間から、家族の反応は手のひらを返したように軽蔑の眼差しを向けた。五十を過ぎた無職の浪費男は、一家の大黒柱として機能をなさない単なる疫病神でしかない。
「わたし、働いてあなたを支えるのなんて無理ですからね」
ある日、恵子は坂部に離婚届を突きつけ、娘と一緒に出ていった。借家からは退去を余儀なくされ、坂部に残ったのは恵子への慰謝料と多額の借金。それでもなお、パチンコ屋を彩る電飾を見て手が震える。
それから、坂部は老いていく体でも何とかこなせる日雇いの仕事を転々とした。しかし、収入はパチンコと酒に消え、寝床はほとんど公園か、冷たいコンクリートの路地裏だった。
十年、二十年と時が経った。
出生率は延び悩む一方で、寿命は歳を追うごとに延び続けた。
超高齢社会にあって、坂部は八十歳になっても、まだ百歳以上の高齢者を支えるための労働力あることを求められた。
人工知能と機械工学の発展により、老齢でも働ける仕事は増えていった。一方で、坂部のような老齢の労働者に充てがわれるのは単純労働が大半だった。外国人労働者同様に、安い労働力として、その大半を税金として掻っ攫われながら、体の動く限り働き続けるしかなかった。
そんなある日、仕事の途中で足首をひねったのが、坂部の運の尽きだった。この時代の老人はパソコンやらエーアイとやらを使いこなせて当たり前とされた。当然、坂部はそのラインにも立つことはできなかった。
そうして仕事にもあり就けなくなった坂部は、ただ公園の隅で風をしのぎながら、配給を待つことでしか命を繋ぐことはできなくなっていた。
とうとう坂部は、途方に暮れ、ふらふらと街を彷徨い歩いた。気づけば、繁華街の裏路地にうずくまるように座っていた。冷たいコンクリートに背を預けながら坂部は嘆いた。
――すべてはあのおかしな出来事のせいだ。
急に三十年を飛び越して、経験も知識もないままに社会の中に放り出された、二十歳のあの日。
もちろんそのまま自堕落な生活を送り続けた自分に悪いところがなかったとは言わない。しかし、あの出来事がなければ、今の自分はもう少しまともに生きられていたのではないか。行き場のない感情が、坂部の胸を突き刺していく。
その時、視界の向こうにぼんやりと暖色の光が浮かんでいるのに気がついた。それは神の御光か、はたまた地獄の灯火か。
坂部は導かれるように立ち上がり、覚束ない脚を何度も地面に引っ掛けながら、ようやく光の元へと歩み寄った。
灯りの正体はレンガ造りの建物にかかるランタンの灯りだった。
『たいむましぃん屋』
坂部は躊躇することなく木製の戸を引いた。
「いらっしゃいませ――」骨董品が並ぶ店の中で、店主らしき腰の曲がった小柄な男が坂部を出迎える。「あなたの意識だけを三十年前に転送して差し上げます」
店主の言葉が、坂部に朧気ながら『失われた三十年』を想起させた。二十歳からの空白であり、五十歳からの怠惰である。
いずれの三十年も、今の坂部にとっては負の遺産でしかなかった。空白の三十年はどうにも取り戻すことはできない。しかし、せめて五十歳の頃に戻れれば、これまでの怠惰さえ改めることができれば、そんな思いが先走った。
「行き着く先は……天国か、地獄か?」
坂部は尋ねた。
「それは、あなた次第でございます」
店主はニタリと笑みを浮かべ、低くしゃがれた声で答えた。
坂部は迷わなかった。迷う余裕さえなかったというべきか。ここにいても、老いて、死んでいくだけだ。
「戻してくれ。私を三十年前のあの日に……」
坂部は決心の言葉を口にし、店主は、お望み通りに、と静かに頷いた。
店主は三つの重要事項を告げ、懐中時計を取り出す。坂部は決意に満ちた表情で店主の言葉を聞き、意識を時計の針に集中する。
坂部は朦朧とする意識のなかで、自分に言い聞かせた。怠惰に打ち勝て。己を律しろ。生き方を正していけば、次の人生はきっと今よりもまともになる。
だが、彼はまだ知らない。行き着く未来には、これまで以上に大きな重圧と責任が待ち受けていることを。
何度でも言う。この物語は常に過去に執着し、未来への選択を間違え続ける男の話である。少なくとも、この時点での坂部にとっては――。
この先、彼がどのように生きて、死んでいくのか。その行く末は、彼自身の今後の行動にかかっている。なぜなら人生の道程は、彼が降り立つ『過去』という名の『今』で、一歩を踏み出すごとに組み上がっていく足場そのものなのだから。
『過ぎ去った未来』最終話に続く
1/29/2026, 10:13:01 AM