『モノクロ』
パチッ、という音が響く。
石が碁盤の上に弾かれる時の澄んだ音だ。
俺も同じ音を出そうと次の手を打つが、意識と反対に、石はコツッとダサい音を奏でる。
高校に入り、部活として囲碁を始めたのは、ほんの半年ほど前のことだ。小さい頃、遊びの1つとして時々リクトと対局していたとはいえ、実力的には初心者。リクトのように毎回あんな綺麗な音を出すのは難しい。
もちろん、どんな音を出そうが勝負には関係ない。でも、パチッと澄んだ音で打てた時にしか味わえない快感のようなものがある。だから、どうしても意識してしまうのだ。
パチッ、コツッ、パチッ、コツッ、パチッ——
白と黒の石が交互に盤上に並ぶ。
続く自分の一手がようやく〝パチッ〟と決まった時、俺は口を開いた。
「おばさん、相変わらず美人でびっくりした。全然変わらないね」
場を和ませる世間話のつもりで、俺は昔のように話しかけた。
「——そう」
リクトはたった一言そう言ったきり、言葉を続けることはなかった。視線は一貫して盤の上から動かない。
次の話題を見つける間、俺はまた石を打つ。
おばさん——リクトのお母さんからうちに連絡が来たのは先週のことだ。
「リクトくん、学校行けてないんだって」
電話を取った母親からその言葉を聞いた。夏休み開けから、学校はおろか家の外にも出ていないらしい。
「おじいちゃんっ子だったからね、リクトくん……」
夕飯を作りに戻る母親の背中を見ながら、俺はリクトの顔を思い浮かべた。
でも何度考えても、明るく笑う顔しか思い浮かばなくて、聞いた話の中のリクトとは上手く結びつかなかった。
リクトとは幼稚園からの幼馴染で、リクトと一緒に暮らしていたおじいちゃんにも小さい頃はよく遊んでもらった。初めて囲碁を教わったのもリクトのおじいちゃんだ。
リクトのおじいちゃんは今年の夏に亡くなった。長く病気を患っていたとは聞いたが、それでも別れはかなりショックだっただろう。
リクトはおじいちゃんのことが大好きで、とても尊敬していた。囲碁が強いおじいちゃんに勝とうと、リクトの囲碁の腕もメキメキと上達したのだ。小学生の時には近所の碁会で大人を負かしていたほどだった。どうにかルールを覚えただけだった俺がリクトに勝てたことは、一度もない。
でも、今日は何としても勝ちたい。勝たなくては——
リクトのおじいちゃんの部屋は、昔来た時のまま変わらない。和室の懐かしい香りがする。今使っている立派な碁盤も、リクトのおじいちゃんの物だ。
いつも部室では椅子に座って対局するため、正座には慣れていない。足の限界が近かった。
耐えきれずに足を組み替えたり、お尻の位置をずらしたりしていると、初めてリクトが顔を上げた。
「足、崩せば」
「うん、ごめん……そうさせてもらうわ」
足を横にずらしながら、変わらず正座のままのリクトの表情を横目でうかがう。でも、リクトの方はこれくらいなんてことないらしい。
顔立ちや細い指先も相まって、碁を打つ姿勢が男ながらに美しいと思う。
最後にこうやって対局したのは、何年前になるのだろう。
中学校に上がるタイミングで、リクトとは違う学校になった。頭がいいリクトは、遠くの私立の中高一貫校に進学したからだ。
家が近くでいつでも会える距離にいたせいか、逆に連絡を取ることはほとんどなかった。連絡せずともどこかでばったり会いそうなものなのに、それさえもなかった。
リクトのお母さんから電話をもらった時、俺はリクトに会いに行かなくてはと思った。
勉強も、運動も、外見も、囲碁だって、俺がリクトに敵うものはなかった。でも、それでいいと思えた。もし唯一挙げるなら、俺はきっと人に恵まれている。リクトと親友になれたんだ。その心強さだけは、誰にも負けない自信があった。
だから俺は今日、リクトに会いに来た。
「俺、高校で囲碁部に入ったんだ」
リクトの意識がこちらに向くのが分かった。
「県で優勝した先輩がいてさ。その人に教わったら、少しはリクトといい勝負できるんじゃないかと思って」
「テニス部は……ナオキ、中学ではテニスしてたでしょ」
リクトが白の石をパチリと打つ。
「あぁ……肘だめにした。やっぱ何してもどんくさいんだよね、俺」
少し悩みながら、黒の石を置いた。
俺の打った一手に、これまで順調に陣を広げていたリクトが、初めて悩む素振りを見せた。そして、しばらくしたあと、またパチリと白い石を盤に乗せた。
「なんでわざわざ……」
リクトが小さくつぶやいた。
部活で得た知識をフル活用させて次の手を考えながら、「ん?」と相槌を打つ。
「……無謀でしょ。囲碁で勝負しようだなんて」
リクトの言葉に、伸ばしかけた俺の手が止まった。
盤上に思考を巡らせる。確かに、そうかもしれない。でも、俺は負けるつもりでこの勝負を持ちかけたわけじゃない。
「でも、だからリクトは俺と会ってくれたんだろ? ただ話そうとか言っても、きっと断られてた」
図星なのか、リクトは黙ったままだ。
「俺、少しは上達したと思うんだ。だから単純にリクトと対局したかった。まぁ他に魂胆がないかといえば嘘になるけど、1番はそれ」
「だったら、勝ったら頼み聞けとかナシだろ」
「そりゃ、何か賭けない燃えないだろ」
「燃えてどうすんだよ」
「青春なんて、燃えてなんぼだろ」
いつの間にか、自然な会話になっていた。碁石を打つ音が、会話の間で心地いいリズムを作ってくれている気がする。
「青春なんて、よそでいくらでもできるだろ」
——パチッ
「できない」
——コツッ
「できるでしょ、ナオキは」
——パチッ
「お前の青春はどうなるんだよ」
——コツッ
「俺は……別にいい」
——パチッ
「俺はリクトと青春したいんだ」
——パチリ
渾身の一手が響く。リクトの手が止まった。
「俺は……もういいんだ、全部」
「いいって、なんで」
「もういいんだよ。囲碁も勉強も学校も。もう意味ないんだよ」
「それって……じいちゃんがいないから?」
俺の言葉に一瞬、リクトの肩が動く。
「あぁ、そうだよ。じいちゃんはもういない。囲碁でじいちゃんに勝とうとする必要もないし、じいちゃんの病気を治すために勉強して、医者になるっていうのももう必要なくなった。学校に行く理由だって、もうないんだよ……」
リクトがコトッと石を置く。その指先に力はない。
その姿を見て、俺はずっと考えていたことを口にした。
「リクト……お前、うちの高校来いよ」
「は、なんで……」
「もしこの対局で俺が勝ったら、頼み聞くって約束だろ。だから、俺に負けたら俺の高校に来いよ。うちの囲碁部は人数も少ないし、リクトより強い人はいないかもしれない。でもいい部活なんだ。それに俺、強くなるから。リクトのおじいちゃんみたいに、リクトの壁になれるように頑張るから。だから、一緒に囲碁やろう」
「いや、そんな簡単に……」
「分かってる。バカなこと言ってるって。でも本気だから。お前は俺に負けなきゃいい。もちろん俺も負ける気はないけど」
気持ちをぶつけるように一息に言って、俺はリクトの目を見た。
そんな俺に折れたリクトが、はぁ、とため息をついた。
「分かった。でも……」
——パチリ
今日1番の快音が響いた。
「これで、俺の勝ち」
俺の陣地の重要な石が、リクトの手に落ちる。
「え、あ、マジで⁉︎」
「マジ。だから、さっきの話はナシということで」
「えっ! いや、もっかい。もっかいチャンスを……」
正座に戻って勢い良く頭を下げると、リクトが声を上げて笑った。
「対局には俺が勝った。でも、勝負はお前の勝ちでいいよ。俺の負け、降参」
「え⁉︎ なんでいきなり」
「なんでって楽しかったから。こんなの久しぶり。それに俺、もっと強くなりたいわ」
リクトが手の中で、俺から取った黒い石を転がす。
「まだ強くなりたいって?」
「うん。だって正直、今日はちょっと焦ったから。ナオキ、ちゃんと強くなってた。俺もまだまだだなって思った。だから俺もナオキと一緒に、囲碁部で精進しようと思う」
「それ……ほんとに?」
リクトの目を見て、俺は尋ねる。
「あぁ、本当に」
フッと笑ったリクトが視線を落とす。
白と黒の石が交錯する碁盤は、闘いの戦跡を残している。
——パチリ
人差し指と中指に美しく挟まれた黒い碁石が、モノクロの盤面に新たな一手を刻んだ。
9/29/2025, 8:42:17 PM