もんぷ

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泣かないよ

 深夜3時、着信の音で目が覚める。けたたましい音に飛び起きて、眼鏡をどこかにやってしまったから、視力の悪い目に画面の表示を近づける。ベッドで携帯をいじりながら寝落ちたのは何時間前か分からず、目のピントはなかなか合わない。ただ、この時間にかけてくる知り合いなんてごく僅かで、いや、1人しかいなくて。瞬きを繰り返した目で予想通りのその見慣れた名前を確認してから通話ボタンを押した。
「はい、もしもし?」
深夜であろうと、朝であろうと、いつであろうと、電話の第一声にイライラや呆れを出すと不機嫌さを増して次会った時に詫びを迫られるのでなるべく穏やかな声を出す。自分から不機嫌さを引き出すような行動をしといて、こちらが不機嫌さを見せると怒って金品をせびるなんてもはや当たり屋ではないか?それが許されてしまうのが女王であり、お嬢様であり、お姫様であり、彼女なのである。ここでいう彼女はsheであり、girlfriendではない。そもそも友達ですらない。何と形容していいのか分からないが…少なくとも彼女の都合の良いように使われていることは自負している。
「…もしもーし?」
応答がないのでもう一度もしもしと伝え直す。いつもならここでマシンガントークのごとくひとりでに話し出すはずだけど。そう、深夜の着信の半分はバイトの愚痴。いや、バイトと言っていいのか…彼女のお小遣い稼ぎの話。新しい人はあの新作も買ってくれないぐらいケチで〜とか、あそこのコース料理なんて食べ飽きたし〜みたいなことをダラダラ僕に喋っては途中で「もう眠いしじゃあね」と適当なことを言って切るのだ……ってあれ?
「もしもし?あれ、聞こえる?」
普段はうるさいぐらいにおしゃべりな彼女の声があまりにも聞こえない。電波の不具合だろうか。落ちていた眼鏡をかけ、スピーカーのボタンを押すと先ほどまで聞こえていなかった雑音が耳に届いた。おそらく相手の音は届いていそうだ。
「あかねちゃん?」
急に怖くなって名前を呼んだ。何か緊急事態だろうか。一気に空気がピリつくような感覚があった。本来危ないはずの橋を自由気ままに独自のルートで渡っている彼女のことを心配していないわけではなかった。しかし、彼女の生まれ持った才能と、どんな我儘を言い出しても憎めないその愛らしさで、自分を含めて大抵の人は丸め込まれてしまうのだろうと納得していた。しかし、やはり彼女のすることに目を瞑れないほど怒る人だっているかもしれない。なんてわがままなんだ、期待させておいてふざけるな、って怒りたくなる気持ちも分からないことはないし。恨みを買われても仕方ないよなと思う。ただ、それで彼女に危害が及ぶとなると別の話で。とにかく安否を確認するために彼女の名前を呼び続ける。
「あかねちゃん、どうしたの?なんかあった?大丈夫?あかねちゃん?」
そんなふうに声かけを繰り返していると向こうから小さい返答が返ってきた。紛れもなくあかねちゃんの「うるさい」といういつもの調子の言葉。緊急事態では無さそうだと理解してほっとすると同時に、うるさいの後に鼻を啜るような声が聞こえて疑問を持つ。
「…あかねちゃん、泣いてるの?」
よく考えてみたら先ほどの「うるさい」は少し低く掠れた声だった気がするし、薄く聞こえる雑音に先ほどのような鼻を啜る音も聞こえる。少し間があった後に「…泣かないよ。」といういつもより落ちたトーンの声が聞こえた。泣いてるじゃん。いや、通話は音声だけだし、彼女の赤い鼻も涙で濡れた目も見ていないのだから、泣いていると断定することはできないけど。泣いてないと否定するのではなく、泣かないよと自分に言い聞かせているようにも思えた。
「どうかした?」
今までこんなにも彼女が話さない電話が無かったから若干戸惑っているものの、いつも通りを装って優しく声を出す。そして彼女の他愛もない話を聞いて。徐々にいつも通り話すようになって、笑うようになって、安心して眠りにつくまで、コーヒーをお供にしながら相槌を打つのだ。

3/18/2026, 10:35:39 AM