『Midnight Blue』
——拝啓 暑さの続くこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
そこまで書いた私は、万年筆を置き、便箋を乱暴に丸めた。
違う、こうじゃない。こんな、何事もなかったような文章を送れる立場じゃない。それに——
まずはそう。きっと、お祝いの言葉からだ……
5枚しかない便箋のうちの貴重な1枚を無駄にして、私は深いため息をついた。
やっぱり手紙なんて書くのはやめにしようか。そんな考えがしきりに頭によぎる。
10年以上も前に大喧嘩をしてから、一度も連絡を取っていない。なのに今さら、手紙を書こうとしている。
孝太は家が近所の幼馴染で、歳も同じだった。私たちは小学校から高校まで、ずっと同じ学校に通っていた。
たくさんいた同性の友達より、なぜか孝太の方が何でも話せた。昔からアクティブな私と、趣味も性格も真逆な孝太。なぜ一緒に過ごせていたのかは分からない。でも私にとって孝太は、何の気も遣わずいられる唯一の友達だった。
大学進学のために上京することになった私は、地元を離れる前日の夜、孝太から家の近くの公園に呼び出された。
「これ、餞別」
そう言って渡された包みの中身は、万年筆とインク瓶だった。
「何これ?」
「だから餞別。ケイちゃん、筆不精だろうけど。たまには手紙書いてよ」
「手紙って、私そんなガラじゃないよ。それに、なんで手紙書くのに万年筆とインク? 普通レターセットとかじゃない?」
「だって、レターセットなんてすぐになくなるじゃん。インクの方がたくさん書ける」
「私がそんなに手紙書くと思う?」
「思わない」
孝太は即答した。
「じゃあ——」
「いいよ別に。ただ、あげたかっただけだから」
素っ気なくそうつぶやいた孝太は、
「じゃあ、それだけだから。ケイちゃん、元気でね」
とそのまま足早に公園を出ていった。
孝太と大喧嘩したのは、それから数ヶ月後のことだ。
とりあえず、スマホに下書きしよう。
真新しい便箋を照らすローテーブル上の小さなランプはそのままにして、私は薄暗い部屋のベッドに寝転がった。
伝えるべきはあの時の謝罪——そして結婚のお祝いだ。その事実に、私は再びため息をこぼす。
先日、人づてに孝太が結婚したという噂を聞いた。聞いた瞬間、私は自分でも信じられないくらいにショックを受けた。
考えてみれば当然だ。私たちはもう今年で30の年。周りの友達は次々に結婚している。かく言う私は、ご祝儀がかさむばかりで、幾度かの交際は結婚までたどり着かなかったけれど。
そりゃ孝太だって結婚する。分かってる。当たり前だ。
なのに、その日家に帰ってから、私は涙が止まらなかった。自分だけ置いていかれたような気がした。喧嘩別れしたとはいえ大切な存在なのに、素直に祝えなかった。
その気持ちは嫉妬じゃない。そのことを私は今さらながらに気づいた。
私は、離してはいけない人を離してしまったのだ。
どれだけ悔やんでも時間は戻らない。私の想いは気づいた瞬間に行き場を失った。
〝結婚おめでとう〟
そのたった一言のメッセージを、どうしても送信することができなかった。
書いては消し、書いてはまた消したあと、私はやっぱり手紙にしようと思った。あの時孝太がくれた万年筆とインクを使おうと。
散々悩んだ挙句、手紙の文面はシンプルにすることにした。
あの時はごめん。結婚おめでとう。
黒いインクが白い紙の上を滑る。ペン先の動きにあわせて、インクの香りがかすかに鼻先に香る。
初めて使う万年筆に最初は戸惑ったが、試し書きを何度かしたためか失敗はしなかった。
お世辞にも綺麗とは言えない真っ黒い文字が、変えようのない事実を心に刻み込んでいくようで、書きながら私の胸はギリギリと痛んだ。
あの時の孝太の悲しみに満ちた表情が蘇る。都会での新しい生活に舞いあがって、孝太に手紙を書くのを忘れていた私。あんな顔をさせたのは、私なのだ。
思えば、孝太は電話が嫌いだった。気恥ずかしいからだと本人が言っていた。いつも直接話してばかりいた私たちには、 メッセージを通して話をする習慣もなかった。
だから孝太は手紙を書いてほしいと言ったのだ。それなのに私は筆を執るどころか、もらった万年筆とインクさえ、一度だって使ってみることはなかった。
「ごめんって孝太。向こう帰ったら手紙書くから」
大学1年生の夏休み、帰省した私は軽い調子でそう口にした。
「そう言ってまた忘れるでしょ、どうせ。ケイちゃん、いつもそうだよね」
「そりゃ私が悪かったかもだけどさ、別にそんなに怒らなくてもいいじゃん」
「別に怒ってない。手紙、嫌なら嫌でいい。勝手に押しつけたことだし」
「だから嫌とかじゃないって。ちょっと忙しかっただけ」
私がそう弁解すると、孝太は私に背を向けた。
「そう。よかったじゃん、忙しくて。充実してそうで何よりだよ。ほんと、余計なことだった。向こうで話し相手いないだろうと思ったから、こっちは親切に手を差し伸べてあげたのに」
「何それ、そんなの私頼んでない」
「うん、だから余計だった。もう全部忘れてくれていいから。その程度だったんだし」
「ねぇ、孝太今日おかしいよ。なんか変わった?」
「なんで、変わったのはケイちゃんでしょ。もういい、じゃあね」
「ちょっと待って!」
立ち去ろうとした孝太の腕を掴んで引き止めた。
そして目に映った孝太の顔は、涙で濡れていた。
「……全部捨ててくれていいから。何もかも忘れて」
それっきり、私と孝太の長い付き合いは途切れてしまった。
封筒に入れた手紙は、翌朝ポストに投函した。最後まで送るのをやめようかどうか迷ったが、最後は手紙が手から滑り落ちるようにポストに入っていった。
その瞬間、私は小さく息を吐いて気持ちに区切りをつけた。泣くのは昨日が最後。もう前に進むしかない。
それからの私は、すべてのことを頭から振り払うように仕事に打ち込んだ。
そうやって時間が経ったある日、仕事帰りに家の郵便受けをのぞいた私は、とっさに息をのんだ。
手紙が1通。封筒には孝太の名前があった。
家に帰ってもなお、私はその封筒を開けられなかった。中身を見るのが怖かった。
孝太はまだ怒っているかもしれない。私は嫌われているかもしれない。私になんか祝われたくなかったかもしれない。
そんな考えが頭の中でぐるぐる回って、私は一晩中ほとんど寝つけなかった。
朝になって外が明るくなり、私はようやく布団から出て、手紙を開いた。
そこには懐かしい孝太の文字が、かすかに光を反射するようななめらかなインクで綴られていた。朝の光に照らされたその深い青色の文章を見て、私は言葉を失った。
——ケイちゃん。お久しぶりです。手紙、とても驚きました。
ケイちゃんはお元気ですか。僕は元気です。
あの時のこと、僕の方こそごめんなさい。
あの時、僕はケイちゃんに八つ当たりをしました。都会で楽しそうにやっているケイちゃんを見ると、自分が情けなく馬鹿らしく思えて、ケイちゃんにその感情をぶつけてしまいました。そして、そのまま引くに引けず意固地になってしまいました。あとから、何度後悔したか分かりません。
そして、もう一つ言いたいことがあります。
せっかくお祝いしてもらって申し訳ないのですが、残念ながら僕はまだ独り身です。まだ結婚していません。きっとどこかで間違った噂が伝わったのだと思います。
僕は昔、大失恋をしました。正直今でも引きずっています。なので、今後も結婚は難しいかなと思います。
ケイちゃんは今、幸せですか?
もしそうなら、僕の失恋も無駄じゃなかった。
手紙をありがとう。インクも使ってくれてありがとう。
手紙を読み終えた私は、しばらく呆然と便箋を握りしめた。
そしてハッと思い立ち、勢い良く立ち上がった。
スマホで連絡先を探す。見つけた番号を、躊躇なく呼び出す。
「——もしもし」
電話の向こうに懐かしい声がした。
「ケイちゃん、だよね」
「うん、そう」
「わぁ、ほんとにケイちゃんだ。久しぶり」
「久しぶり。あの……手紙ありがとう」
「あ……読んだ、よね。えっと……」
「私っ」
困ったような孝太の声を遮った。声が詰まって、数秒の沈黙が流れる。
「……幸せじゃないよ。つらかった。だって私……失恋したと思ったから」
「……え」
心臓の音が向こうにも聞こえてしまいそうなくらい、激しく鳴っている。
「孝太が結婚したって聞いて、初めて気づいた。私、ほんと馬鹿だよね。後悔しても、遅いのに……」
「——遅くないよ」
低く静かな声で孝太は言った。
「遅くなんかないよ……僕の方こそずっと後悔してた。ケイちゃんに好きだって言えばよかったって。だから手紙書いてほしかったって、忘れないでほしかったって。素直に言えばよかった、ずっとそう思い続けてきた」
私はようやくあの時の孝太の本心を知った。〝ずっと〟という言葉の意味の重さに、胸が苦しくなる。
「ケイちゃんから手紙もらって、最初は戸惑ったけど、これが最後のチャンスだと思った。気持ちを伝える二度とない機会。もう後悔したくないから。だから……」
私はスマホにじっと耳をすました。
「ケイちゃん、好きです。ずっと好きでした。もしまだ遅くないなら、もう一度ケイちゃんのそばに行ってもいいですか」
自分の頬を温かいものが伝うのが分かった。私も、もう後悔はしない。
「——うん」
テーブルの上の孝太からの手紙。一見黒のようなインクが、太陽の光を受けて深い青色にきらめく。
ふと、その隣で同じように反射する光に気がついた。
あの時もらったインクの瓶を手に取って、そっとひっくり返す。
裏のラベルには小さくこう記されていた。
『Midnight Blue』
8/22/2025, 11:15:01 PM