『スリル』
中年の僕はもう、生きるのがしんどくなってきた。ブラック会社の仕事は理不尽な事ばかりで、家に帰れば一人ぼっち。生きたくない、消えてしまいたい――そう思った僕は、出勤を黙って放棄して、砂浜に立っていた。そして、海へ海へと、足を進めていく。生きる意味がないし、このまま、ゆっくり沈んでしまおう――。
「おーい! そこのお兄さぁーん!」
海に飛び込もうとした時、遠くから誰かが僕を呼んだ。派手な格好をしており、ギャルっぽい見た目の女性である。
「ねぇねぇ、お兄さん。これからあたしと楽しいとこに行かな〜い?」
「……いえ、行かないです」
女性を無視して、僕は海へ。すると、女性が僕の腕をグッと掴んできた。
「ほら、お兄さん! はっちゃけられるとこ、あたし知ってるから! 海よりもいーとこっ! ほら、こっち行こ!」
女性にグイグイ引っ張られ、僕はそのまま車の助手席に突っ込まれる。出ようと思ったところで彼女は素早く運転席に乗り込み、すぐに運転開始。完全に逃げられなくされた。
「あ、あのっ……降ろしてください……」
「だーめー。お兄さんといーとこに行きたいもーん」
「なんで、僕なんかと……」
「なんでって。フィーリングで決めた事に、理由とかあるー?」
女性は楽しそうに言い、しばらく車を走らせる。その後、到着した先は、どこかの山奥だった。
「ちょっと。なんでこんなところに……」
「んふふ。まぁまぁ、こっちこっちー」
女性に引っ張られて連れてこられたのは、古くて長い吊り橋。普通に乗ったら、崩れてボロボロにしてしまいそうだ。恐怖で僕が唾をごきゅりと飲み込むと、女性は僕の腕をがしっと掴んできた。
「な、何のつもりですか……!」
「お兄さん。あたしがちゃーんと腕を掴んでるから、逃げちゃやだよ?」
女性はそう言うと、僕を吊り橋へと連れて行った。足を踏むだけでギシリと不穏な音が鳴る吊り橋は、僕に血の気を引く恐怖に陥れた。
「い、いやっ! ちょっと、待ってって!」
「このくらいでビビらないでよ〜。ほら、ほらぁ〜!」
「待って、ちょっと! 揺らさないで!」
女性はケタケタと楽しそうに吊り橋を揺らす。揺れると不穏な音が余計に聞こえてきて、さらに怖くなる。一方の女性は、完全に僕のリアクションを楽しんでいるようだ。しばらくは彼女に振り回されながら渡り、到着した頃には、僕の魂は抜けかかった状態になった。
「どーよ。吊り橋って、結構スリル満点じゃなーい?」
「スリルを通り越して、死にかけたから! 揺らすなんて何を考えてるの!」
「えっ、怖かったぁ? ……んははっ。お兄さん、海にダイブしようとしてたのに、吊り橋から落ちるの、怖かったの?」
女性に言われ、僕はハッとする。そうだ、僕は人生が苦しくなったから、消えようとしていた。それなのに、どうして吊り橋に怯えていたのだろう。吊り橋から落ちれば、すーっと消える事が出来るのに。
「……お兄さん。心がまだスリルを感じているのなら、生きたい気持ちが残ってんだよ」
女性はニカッと笑い、渡ったその先へと僕を引っ張る。そこでは滝が勢いよく流れており、景色としては良いものだった。滝が、僕の黒ずんだ心を洗い流すようだ。
「綺麗だ……」
語彙力のない僕から出る感想は、小並なもの。それでも、女性は「でっしょー!」と喜んでくれた。
「あたしね。心が疲れた時は、いつもここに来るの。途中のスリルを乗り越えた先にある、絶景の景色! 最高じゃない?」
「スリルはいらないけど……景色は、良いかな」
「んふふ。お兄さん、まだ時間ある? あたし、他にもいーとこ知ってるんだよね。一緒に出かけよーよ!」
「……スリルがないところがいいな」
僕がそう言うと、彼女は「え〜っ!」と驚きつつも、笑顔を見せた。スリルは嫌だけど、生きる意味を見つけてくれた事には、感謝している。
――今も、ずっと。
11/12/2024, 2:43:41 PM