『同情』
同情とは違うかもしれないが、私は人の感情の影響を受けやすい方だと思う。
怒る人、悲しむ人、困っている人を見かけると、自分の無力さを叱責されているように感じて辛くなってしまう。
もちろん、それは私が勝手に感じただけで、その人たちに私を害する意図がないことは分かっている。
それでも反応してしまうのだから、たちが悪い。
小学2、3年頃の夏休みに、近くの公民館でアニメ映画の鑑賞会をするというので、弟と泊まりに来ていた従姉妹たちと出掛けた事があった。
窓という窓を暗幕で覆った薄暗い会場は、興奮した子供たちで一杯で、騒々しいお喋りが飛び交い、息苦しいほど蒸し暑かった。
それでもお祭りの喧騒のようでもあり、それまで映画館に行ったことのない私は、楽しく思っていた。
やがて映画が始まり、ますます期待は高まった。
しかし私は、これが何の映画かを知らずに見に来ていた。
ストーリーが進むに連れ、だんだん不安になり、それは間もなく後悔に変わった。
爆弾が投下されるシーンに差し掛かると、私はすぐに顔を伏せて耳を塞いだ。
しかし、映画の大音量の前では何の意味もなかった。
「なんでーーーーだろうね」という近くの男子の言葉が生々しく耳にこびりつく。
聞きたくなかった。
もちろん、その男子に私を害する意図がないことは分かっているが、どうしようもなく体が反応してしまう。
私は吐き気を覚え、内心半狂乱になりながらも必死に耐えた。
映画が終わって会場を出る時、他の子たちは何事もなかったかのように、いつも通り帰って行った。笑顔の子もいた。
私は普通を装っていたが、誤魔化せてはいなかったと思う。
電気がついた会場は、壁一面に写真が展示されていた。
私は何も見ないように視線を足元に固定して、脇目も振らず会場の外へ出た。
気分は最悪だった。
みんなが普通に耐えられるものを、私は耐えられないのか。
途中で見るのを止めたものの、音声から想像して恐ろしいイメージが完成していた。
それからは、映画のイメージに重なって毎晩自分が死んでいくシーンを追体験した。
恐ろしくて眠れないのに、眠れなければそのシーンから逃れる事ができない。
そんな地獄が大人になるまで続いた。
それは、翳りの一つとなった。
人前での明るい性格と一人の時の暗い性格。
これらは、春の暖気と寒気のように簡単に混ざり合わず、そのギャップに一人疲弊した。
大人になり、死に対する考え方が変わると、だいぶマシになった。
自分と他人の線引ができるようになると、さらに楽になった。
大切な人が困った時、自分も同じ精神状態に陥ってしまっては、手を差し伸べることなどできない。
せめて大切な人を守れるくらいには、強くなりたいと思っている。
2/20/2024, 1:22:29 PM