Una

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「もう朝か。」
見知らぬ家に来て気付けば長い時間が経過していた。窓から見える太陽も今となっては見慣れた。眩しい光に纏わりつかれながら、布団から抜け出す。相も変わらず真ん中に一つ置かれた机には、彼が作ってくれたご飯がラップに包まれている。白くなっているラップを見て、部屋の扉を忙しく開ける。彼がいるかもしれない。作ったばかりの温かいご飯は、彼の存在を証明するのに十分だった。でも、もう既に彼は出かけてしまっていたようで、姿は見えなかった。

彼との出会いはほんの一か月前。
私は学校でいじめを受けていた。最初は陰口から始まり、直接的ないじめに変わっていった。物は無くなり、制服や髪の毛はあられもない姿になった。終いには暴力になり、毎日傷が増え続けていった。それに加えてDV気質な父親と、その父親のせいで変わってしまったネグレクトの母親。家に帰ったところで、心配されるわけなどなくて、唯一味方だと思っていた先生は、私を大切にするという名目で身体を触られるようになった。私の辞書に味方の文字は見当たらなかった。
そんな時、私は河川敷で彼に出会った。パーカーを深く被り、肌という肌をこれでもかと隠すような服装、足元には虫が集まっているようにも見える。何分、何時間ここにこの人は留まっていたのだろう。興味本位で私は彼に声をかけた。最初は無愛想な返事ばかりだった。つまらなくなって自分の話を始めた。彼はつまらなさそうな顔をしながらも、相槌だけはずっと打ってくれていた。最後に私は深呼吸をして言った。
「ねぇ、私のこと誘拐してよ。」
あの時の彼の顔を私は忘れたことは無い。複雑な顔。この世にある五十音を絡めただけでは表しきれない顔。沈黙の後に静かに彼はまた相槌を打った。

それから私たちの誰にも知られない生活が始まった。彼は誘拐犯、私は被害者。世間には誤った情報しか流れない。私の身体を、私の家庭事情を知られたくない親は、今までに見た事ない形相でテレビの前にいるであろう視聴者に、私の無事を訴えかけていた。
「犯人め、うちの子を早く返せ!」
「お願いだから、私の大事な娘を返して…。」
怒号を飛ばす父親は、きっと私につけた暴力の痕を消すのに必死。涙ぐみながら話す母親は、きっと自分が記憶から消したはずの私を、バレないように片付けるので必死。テレビという電子機器に誤った情報を流されているのは、私と彼のことだけではなかった。私と親と名付けられた二人の男女間の関係もだった。そんな誤った情報に踊らされているニュースのアナウンサーは、私の捜索を進めることを告げた。

彼は毎日名も無き場所へ出かけていく。行き先に関して私に何かを告げることは一度も無かったけれど、ご飯だけは毎日用意されていた。起きるとまずは食卓と思われる簡素な机に、一人分だけ差し出された食事を胃の中へ流し込む。昼ご飯は、冷蔵庫の中に作り置きされており、一緒に置かれたメモを見て電子レンジで加熱する。夜は彼が帰ってくるのを待ち、彼が作った出来たてのご飯をまた胃に流し込む。彼のおかげで私はいつも温かいご飯が食べられている。今まで食べたことない口に広がる食材の味と、熱を感じる彼の料理が私は大好きだった。

ある日起きると私の布団のすぐ側に、彼が座り込んでいた。何かあったのかと顔を覗き込むと、
「今日この家を出よう。」
彼は小さな声で、けれどはっきりと一言放った。つまり彼が言いたいのは、きっと駆け落ちのことだろう。もう警察に居場所がバレたのかもしれない。もうじきここに警察か何者かが来ることを、彼は察知しているように見えた。
大事なものだけを鞄に詰めて家を出る。彼から貰った帽子を深く被り、彼の服に身を包ませる。気付けば私の周りには彼のものが満ち溢れていた。もぬけの殻になった部屋や、ゴミ袋いっぱいに収容された机や椅子たちを見て、何だか全てが終わってしまうように感じた。誘拐された時から、もう後にも先にも引けなかったのかもしれない。

二人手を繋ぎ、誰もいない細道を通る。数多の家の換気扇から漏れる排気ガス。誰にも回収されない収集所に積み上げられたゴミ袋。お腹を空かせた野良猫。嘘にまみれた関係性の私たちの最後には、ぴったりな道かもしれなかった。汚いはずなのに、臭いはずなのに、何だか居心地がよくて、ここから離れたくなかった。私は薄々勘づいていた。これから向かう先で、私たちの身に何が起こるのか。その何かの正体。もうこの世界には戻って来れないだろう。
何時間も歩いた末、辿り着いたのは崖の上で、そこから見えたのは綺麗な海だった。生き物を住まわせ、太陽からの言葉を反復する。何にも染まっていないはずなのに、この世界に馴染んでいるように見えた。海から見える私たちは、きっと異質な何かでしかないんだろう。

急に彼の手が震え始める。耳を澄ませると誰かの足音が聞こえた。後ろを振り向くと、そこには警察官が立っていた。
「ようやくここまで追い詰められた…!」
応援を呼んでいたのか、その警察官の一言で後ろからぞろぞろと仲間達が私たちを囲った。
恐怖で足がすくむ。もう終わってしまう。彼との二人だけの世界が壊され、また味気のない世界に引き戻されてしまう。震えながら彼の顔を見る。彼の瞳は私を捉えていた。
「一緒にあっちに行こう。」
初めて耳にすんなり入った彼の声は、私を突き動かすのに十分なほど、響いて聞こえた。私たちは手を握り直し、二人で笑って、

飛んだ。


-ある日のニュース速報による情報-
20xx年某日に起きた少女誘拐事件の犯人と、その少女の遺体が、○○県の△△市の□□海沖で発見された。二人の遺体はお互いの手を握りながら、速いスピードで頭部から落下したと推定された。顔の原型は留めてなかったのだとか。現場にいた警察官の証言によると、犯人の男は飛び降りる直前、少女に対し「あっちに行こう」と発していたそう。このことに対し、警察側は「あっちとは、海のことなのか天国のことなのか、どちらを指していたのかは分からない」との見解を示していた。

-少女の日記より-
〇月△日 私と彼は、明日この世界から旅立つらしい。彼はきっと何かを感じてる。それが私にとっていい事なのか、悪い事なのかは分からない。考えたくない。私は彼が行く場所へ着いていくだけ。
あーあ。死ぬ前に海に行ってみたかったな。汚い私が綺麗な海で洗われたら、きっと私も綺麗になれるよね。貴方を信じてる。最後は一緒に飛び込もう。

「海へ」

8/24/2024, 9:57:38 AM