ミミッキュ

Open App

"Kiss"

「来たか」
 正面玄関の扉を開け、ハナが外に出ないよう注意しながら迎え入れる。
「済まない。少し遅くなった」
「別にたった五分だし、気にしてねぇ。俺はそこまで時間にシビアじゃねぇし。それに、指定した期日まで全然余裕だから、どうでもいい」
 比較的ラフな格好の飛彩が院内に入ったのを確認すると、扉を閉めて──まだ開院前なので──ポケットから鍵を取り出し、シリンダー錠をかける。カチャリ、と錠がかかった音を聞いて、ちゃんと閉まったか三回ほど扉を動かして確認する。扉が開かない事を確認すると、扉の取っ手から手を離して「こっち」と先頭に立って診察室へと促す。
「頼まれたデータだ」
 診察室に入ってすぐに、ポケットから無骨で無地の黒い長方形のUSBメモリを出して差し出してきた。「おう」と受け取ると、差し込み口のカバーを外してサーバーに差し込み、デスクに座ってデータを確認する。
「確かに。助かった」
「礼には及ばない。この前の演奏のおかげで、予定より早く用意できた」
 いつもの涼しい口調で恥ずかしい事を吐く飛彩に一瞥もくれずに「あっそ」と簡素な言葉を返して、パソコンのモニターに視線を向けながらマウスを操作して、なるべく早く形にしようとキーボードのカタカタという音を鳴り響かせながら打ち込んでいく。
──おかげでこの部分の入力が捗る。
 最初は恥ずかしさを紛らわす為に少し進める程度でやっていたが、段々とキーを押す指の動きが滑らかになって、来客そっちのけで進捗率が上がっていく。
「……っ!?」
 モニターに釘付けになっていると、急に頭部──つむじ辺りに柔らかいものが当たる感覚がして、肩が跳ね、その反動で打ち込んでいた手が止まる。バッ、と振り向くと、いつの間にか背後に飛彩が立っていた。「何すんだ」と睨みつける。
──いつ背後に回り込んだ!?足音も、服が擦れる音もしなかったぞ!?……まぁ、来客放ったらかしでパソコンに向かって資料作りし始めた俺が悪いんだけど……。だからって、なんなんだよ。心臓止まるかと思っただろうが。
 言葉をつらつらと心の中で転がす。「済まない」と小さく呟くと、俺の手を取って顔を近付けた。
──おい待て、口付けする気か?
 と少し焦って止めようとしたが、口にする前に動きが止まった。
「良い香りがする」
 そう言うと、鼻を近付けて香りを嗅いできた。おそらく顔を近付けた時に、飛彩が来る少し前に塗ったハンドクリームの香りが飛彩の鼻をくすぐったのだろう。
「お前のはカサカサだな」
 ずっとおとぎ話のお姫様のように手を取られているのを恥ずかしさに振りほどいて、デスクの引き出しからハンドクリームを取り出す。
「ほら。手出せ」
 言いながら自身の手にハンドクリームの中身を出して、両手を合わせて手の平全体に塗り広げる。両手を出してきたので、片方ずつ丁寧にハンドクリームを塗り込んでいく。
──大きいな。
 背は俺の方が大きいのに、俺と大きさがあまり変わらない手。
 それでいて俺よりも男らしくしっかりした手。そのせいか大きく感じて、『大きい』という感想が浮かんだ。
 俺より色々な物を持ったり持ち上げたりした手。特に手術は、俺の元の専門とは真逆。全体的に外科は体力勝負な所があると学生の時聞いた事がある。そして手術は患者の臓器に直接触れる。体力だけでなく、元放射線科の俺からは考えられない程の相当な集中力を求められているだろう。
 そんな手を労るように、ハンドクリームを優しく念入りに塗り込んでいく。
「……終わったぞ」
 塗り終わりを告げて手を離し、向き直る。
「ありがとう」
「いつも酷使してんだから大事にしろ。手荒れで手術中に赤切れ、なんて笑えねぇからな」
「あぁ、善処する」
 そう言うと、手の甲を近付けて嗅ぎだした。
「貴方と同じ香りだ」
「同じの使ったんだから当たり前だ」
 また恥ずかしい言葉をさらりと言ってのけて、顔を逸らすとサーバーからUSBメモリを抜いて差し込み口に、サーバーのそばに置いていたカバーを付けると「ほら」と半ば乱暴に差し出す。飛彩がUSBメモリを受け取ってポケットに仕舞ったのを横目に確認する。
「この後も時間があるから、何か手伝わせてくれ」
「じゃあ、時間までハナの相手頼む」
 そう言って、いつの間にか膝の上に乗ってくつろいでいたハナを抱き上げて飛彩に渡す。
「承知した」
「みゃあ」
 飛彩に抱かれたハナは『よろしく』と言わんばかりの鳴き声を出す。「あぁ」と答えると、ハナと共に診察室を出て居室に向かった。
 物陰で見えなくなるとデスクに向き直り、大きなため息を出して突っ伏した。

2/4/2024, 3:19:42 PM