マサティ

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『鳩男』

大須観音から徒歩10分、都会というにはややみすぼらしいアパートに俺は住んでいる。
思えば、大学時代から含めるとここに住んで10年か。
通おうと思えば大学に通える距離だったが、無理を言って下宿をさせてもらった。
結局、この住まいに居ついてしまった。
別に愛着があるとかいうわけではない。
ただただ、面倒だっただけだ。
1人暮らしをしたのは何かを変えたかったから、の様な気がする。
学生時代は、ちょっとバンドをかじり、芸人紛いのこともしたり、ちょっと小説の様なものも書いた。
結局何も身にならなかった。
憧れていた1人暮らしも、しばらくすれば日常の一角に落ち着いてしまった。
学生時代に貰っていた仕送りも、当たり前だが今は無い。
何かを変えたくて、何かになりたくて気付けば30歳という大台に差し掛かろうとしていた。
金が無い、金があればもっと何か変わるのにと思うが、時間も失いたくない。
工場の派遣社員でなんとなくやってこれてしまったので、今更転職も面倒くさい。
きっと今までの経験上、金が多少あったところで大して変わりは無い気がする。
そんな、卑下にも似た達観を抱えたまま20代は終わろうとしていた。

俺の住むコーポ・エリーゼというアパートの名前は、ブルボンのお菓子を連想させる。
あれは、うっかりするとポロポロとカスがこぼれるんだよな。
大須には大量のハトが生息している。
やつらは、人間が落とした食べかすが主食なのだ。
仕事が終わり、観音様の上空が茜色に染まる頃、俺は意味もなく大須を徘徊する。
ぐるぐると巡る。
どこに何があるかすべて把握しているはずなのに、見知らぬ袋小路に迷い込んだ様な気分になる。
その日はやけに人通りが少なかった。
平日の夜でもそれなりに往来がある場所だが、やけに静かだ。
ココココっと鳴き声がする。
振り返ると鳩が居た。
鳩がぞくぞくと集まっている。
俺の後をついて歩いている。
なんなんだこれは。
歩を早めると、バタバタと飛んで歩いてを繰り返して付いてくる。
一体何羽いるのだろう。
少なく見積もっても10羽以上いる。
俺は思わず走り出した。
一体全体何事か。
そもそも、ここいらの鳩は日が暮れるとねぐらに帰るはずなのだ。
俺は恐ろしくなって、食べ歩きしていたドーナツを千切っては投げ千切っては投げて鳩に投げつけた。
鳩達は勢いよくそれらをついばんだが、更に元気づけられたように俺を追いかけまわした。
俺はひとまず近くのコンビニに逃げ込むことにした。
コンビニの店内はいつもと変わらぬ日常だった。
店員も客もいつも通りの様子である。
鳩だけが異常だが、誰もそれを気に留めていない。
俺が店内からチラっと外を見ると、鳩達は待ち構えているようにずらりと並んでいた。
思わず冷や汗が出る。
アパートまで10分、全速力で走って帰るか。
運動不足の俺にそんな体力があるだろうか。
いや、もう腹をくくるしかないか。
俺は位置についてヨーいドンっと頭の中で唱えて、コンビニからとび出した。
鳩達はバサバサと飛び上がって俺を追いかけてきた。
荒く短い呼吸音だけが鼓膜に響く。
その時、背後から怒鳴るような女の声が聞こえた。
「お前、逃げてんじゃねーよ」
一瞬振り返ると、眉を吊り上げた女が彼氏と思われる男の裾を引っ張っていた。
痴話喧嘩だろうか。
俺に言ったわけじゃないだろうに、思わずすくんでしまいそうな怒声だった。
いや関係ないけれど、俺は何で逃げているんだっけ。
たかが鳩相手に何で怯えているのだ。
そうだ、あの時もその時も、今も逃げてばかりじゃないか。
俺はクルリと振り返って鳩の群れに対峙した。
そして鳩に向かって全速力で走りだした。
「おいっ鳩っ!待てやこらっ」
今まで追いかけてきた鳩達が、豆鉄砲でもくらったかのように反転して逃げ出した。
流石に鳩は速い。
けれど諦めない。
ここで走ることをやめてしまったら、俺の人生は一体なんだったというのだ。
遥か後方では、まだ男女が痴話喧嘩を続けている。
おい、もう腹くくれって。お前も、俺も。
しかし、妙に身体が軽い。
あと一歩で、鳩に手が届きそうだ。
アーケードを走り抜け、とび出してしまった瞬間、歩道の赤信号が見えた。
ヤバい、轢かれる。
そう思った瞬間、俺の手は鳩の翼に触れた。
視界が翻り、地上を見下ろしていた。
鳩に触れたのではなく、俺が鳩になっていたのだ。
見下ろした観音様は夕闇に深く沈もうとしていた。
確かに何かを変えようとしていた。
しかし、まさか鳩になってしまうとは。
俺はやれやれと翼を拡げ、どこかも分からぬ自分のねぐらへと飛び立った。

3/24/2024, 7:42:52 AM