螢火

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列車が揺れる。がたことがたごと煩くて仕方ない。俺は車掌の方を見やった。見知った顔である。車掌は帽子を目深に被り、こちらを振り向こうともしない。その背中はまるで「私忙しいので。」とでも言いたげである。手元の参考書は先程から次のページに行こうとしない。赤い字で「間違い3回目!」と書いてある。そこを何度も何度も指でなぞる。その横には付箋が貼られている。「失敗は許されない」
「はあ」とつい大きめに空気を吐き出した。それに気づいたかのように、ちょうどそのタイミングで車掌がこちらを振り返った。俺はずっと見ていたことを知られたくなくて咄嗟に目を逸らして参考書を見た。車掌はもう前に向き直ったらしい。視界の端に車掌の黒い背中が映る。
車掌の背中に目がついているように感じる。だから俺は外を眺めることにした。しかし外はどこもじめっとしていて景色は良くない。いつまで進んでも一向に鮮やかな色は出てこない。つまらないな。がたごとがたごと煩いうえに人の目も楽しませてくれやしない。なんなんだまったく。


俺の母親はいわゆる毒親ってやつだった。よく言えば教育熱心。それも異常なまでに。母親自身はそこまで学歴が高くないため、コンプレックスを抱いているようだった。またそのおかげで給料もあまりいいものではなかった。だから俺に自分の第2の人生を預けた。というか押し付けた。塾は当たり前に毎日10時まであった。学校が終わったら塾の自習室で学校の宿題をやらなければ、寝る時間がなくなってしまう。宿題が終わると同時ぐらいに塾の授業が始まる。先生の顔はいつも新しかった。母親は何度も塾に文句を言いに行った。そして母親は毎夜俺をずっと叱っていた。「間違いは許されない」「ライバルは簡単に満点を取っている」「そんなんじゃ将来バカにされる」「職は安定が1番だ」
寝る時間はほとんどなかった。ましてや遊ぶ時間なんてゼロだった。それでも俺は塾を休んだことは無い。今日の面接さえ乗り切れば自分の人生を手に入れられると確信していたからだ。今日、俺はこの列車に乗って俺の人生のハンドルを奪い返しに行く。あと少しで今後の自由な俺の、俺だけの人生になる。失敗は許されない。俺は俺がなりたいものになる。母親が用意した道じゃなく。母親のように安定のために楽しみを捨てたりしない。

首に痛みを感じて1度上を向く。がたがたと外から音がした。窓の外を見ると、こんな荒廃した場所には似合わない鮮やかな色の列車が隣を走っていた。しかも中に乗る人々はみな近くの者と談笑しているようだ。けらけらと笑う仕草をしたり、うんうんと頷きあっている。しかし行先は違うらしく緩やかなカーブと共に少しずつ離れていく。灰色の景色のせっかくの彩りも瞬く間に小さくなった。名残惜しく思ってしばらく外を眺めていた。
「あ、花」そう思ったのも束の間。そこにいた人がその小さな花をブチッと摘んだ。雑草という名前がつけられた花だろう。それでもこの寂しすぎる景色には貴重な物だったのに。また花が現れた。よく見るとそこかしこに咲いているようだ。しかしそこにいる人がそれを端から摘んでいく。もったいないなぁ。まあでもどうせここから言ったって聞こえないだろう。しばらくするとまた味気のない景色に戻った。あーこちら側の花は摘みきってしまったのか。きっといっぱい咲いてたら綺麗だったろうに。

列車はどんどん進んでいく。がたごとがたごと。寂しい景色も同じスピードで更新されていく。ずっと味気ないまま。トンネルを通ったあともずっと景色は変わらない。俺はまた手元の参考書に目線を戻した。入室時の挨拶は完璧だ。後ろのページには質問例が載っている。「子供はすきですか」「子供が授業に集中していなかったらあなたはどのような工夫をしますか」全ての答えを準備した。完璧に覚えている。そろそろ会場に着く頃だろう。




列車が止まる。

車掌がこちらを見て口を開く。

「失敗は許さない」









------------------「はい。お母さん」

『列車に乗って』

2/29/2024, 4:28:04 PM