あるまじろまんじろう

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 恋人がゾンビになって帰ってきた。

 ――無機質な機械音が、残酷なほどに静まり返ったワンルームに響く。誰かがインターフォンを鳴らしたのだ。一呼吸置いて、そう理解した。
 物が散乱した部屋の中央、ソファーに俺は座っていた。玄関の方へ視線をやると、シンクに放置された食器の中、ひとつだけ綺麗なままのコップが視界に入って、投げやりに半分残った酒瓶を放った。お揃いで買ったコップだった。みかんのような色が気に入ったと、あの子が選んだものだった。冷たい床の上、裸足のまま玄関まで歩いて、無防備に鍵を開ける。侵入を防ぐ為に移動させていた、二人用の靴箱をどかして、チェーンを外した。
 ゾンビパンデミックが発生してから、もう数日。緊急事態宣言と外出禁止令を発表して総理大臣は死んだ。荒っぽい機械音のするラジオがそれを教えてくれた。良いニュースはない。収束の兆しもない。
 ……気が可笑しくなっているのかもしれない。あるいは、馬鹿みたいに飲んだ酒がまわったのか。じゃなきゃ、玄関扉を開けるなんて、馬鹿なことしない。
 ドアノブに指をかけると、ゆっくり力をこめて俺は、扉を開く。
 途端、鬱屈とした室内へ飛び込んでくる光に、目を開けていられなかった。どうやら、外は昼だったらしい。カーテンをきつく閉めて引きこもっていたから、日光を浴びたのは久しぶりだ。何かそれが、とても素敵なことのように思えて、口元が緩まる。乾いた笑いさえ漏れて、この愉快な気分に、いつまでも溺れていたいと無意識に願った。
 何度か瞬きを繰り返すと、次第に目が慣れてきた。
 視界に、入り込む。それが、インターフォンを鳴らした、何者かの足先だと唐突に理解した。鼻腔を、強烈な匂いが支配する。死臭だ。
 現実に引き戻される。酔いが一気に冷めて、しかし、咄嗟に体は動かない。何も素敵じゃない。愉快でもない。外の世界は、背後に広がる一人っきりのワンルームよりも、侘しく恐ろしいというのに。
 緊張で酷く乾燥して、痛みさえ感じる喉が、飲み込んだ唾液で微かに潤う。気持ち悪く滲む汗ごと拳を握って、勢いよく視界に入れた何者かは、他でもない、――ミカだった。
 ミカ。恋人だ。パンデミックが起こる少し前の、平和な日常で突然、行方不明になった恋人。
 肩先にかかる赤茶けた髪が柔らかく、風に吹かれて太陽のように広がった。健康的に肉付いたしなやかな体躯を覆う、彼女のお気に入りだったスウェットと、少女らしさの残る顔立ちはそのまま居なくなった日と同じで、思考が回らないまま衝動的に動いた体はミカを抱き締めていた。小柄な身体はすっぽり俺の腕に収まる。腕をまわせば感じる、緩いスウェットに隠された病的なまでに痩けた身体と、ふわりと強まる臭いに、鼻がつんと張る。いつか、ラジオで聞いた。ウイルスによって動く死体が、ゾンビの正体らしい。
「ミカ」
 名前を呼んだ。声は震えていた。
 なに。
 呼び掛ければ眉を緩めて、嬉しそうに首をかしげてミカは、いつもそう言うのだ。
 おとなしく抱き締められるミカから返事はなかった。
 涙が零れる。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、離すまいと回した腕に力をこめて、嗚咽にまじえて名前を呼びながら、わんわん泣いた。マンションの廊下で、危険だなんて気にせずに、子供みたいに。顔を埋めると額に触れたミカの首筋、体温は感じられない。些細なことでも一喜一憂して、賑やかな表情を見せてくれるミカの、感情を削ぎ落としたような無表情が辛かった。
 虚ろで、しかし、しっかり俺をとらえている瞳に真意は感じられない。恋人がゾンビになって帰ってきた。ミカは、俺を噛まなかった。





みかん

12/29/2023, 12:23:43 PM