初音くろ

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今日のテーマ
《岐路》





もうこんな会社辞めてやる。
退勤後の電車内、ドア横の手摺りに寄りかかりながら、死んだ魚のような目でスマホの画面をタップする。
検索サイトから転職サイトを調べていると、電車が次の駅に到着してドアが開いた。
邪魔にならないよう手摺りに身を寄せつつ乗降客を見るともなしに眺めていたら、そこに見知った顔を発見した。
すぐに相手も気づき、笑顔でこちらに寄ってくる。

「久しぶり。もしかしてこんな時間まで残業だったの?」
「はい。お疲れ様です……」

気さくに声をかけてきたのは、一昨年まで同じ部署にいた先輩だった。
去年、転職して会社を辞め、それ以来会っていなかった。
ピカピカの新入社員だった頃、ミスばかりしていた私を根気よく指導してくれた恩人でもある。

「ひどい顔色。その様子じゃ相変わらずか」
「はあ、まあ、そうですね」

苦笑いと憐れみの混在する声に、何とも言えない気分で曖昧に頷く。
彼女も一昨年まで同じ環境にいたからこそ、私の味わっている現状が簡単に想像できたんだろう。

私の所属している部署には面倒臭い上司がいる。
とにかく仕事ができない上に、余計な口を出してきては現場を混乱させ、更に余計な作業を増やさせるという厄介な上司が。
更に上の役職に訴えたところで意味はない。その上司は上の会社の社長だか会長だかの縁故採用で、上役も持て余している人物だからだ。
今日もその上司が思いつきで余計な仕事を増やしてくれて、しなくてもいい残業をする羽目になったのである。
異議を申し立てたらパワハラ紛いの糾弾をされて時間を無駄にするだけなので、今では課内の誰もが表面上はその上司の言いなりになっている。

「……もしかして、転職考えてる?」

開いたままのスマホの画面が目に入ったのだろう。
彼女は労りを感じさせる顔を浮かべ直球で聞いてきた。
同じ社内の人間なら誤魔化すべきところかもしれないが、今の彼女は部外者である。
隠し立てする気力もなく、小さく頷く。
本気で転職を考えてるとは言い切れない。半分くらいは迷っている。
それでも、これ以上あの会社で仕事を続けていても、いつか体を壊す未来しか見えないのも事実で。

「今、私、人事の仕事しててね」
「はあ」
「ちょうど中途採用の募集をかけようかって話が出てるの」
「はい……?」
「で、今、私の目の前には、実務経験者で、実力も分かってて、転職を考えてる人材がいるわけなんだけど――もしあなたがうちに来るつもりがあるなら、来週にでも面接の場を設けるけど、どうする?」

鮮やかなルージュに彩られた唇が笑みを象る。
ミスをした時、判断に迷った時、いつも適切な助言をくれていた先輩。
この人のこの笑顔を見れば、大丈夫だと、何とかなると、いつだってそう思えた。
そんな信頼できる相手から、こんな魅力的な誘いを受けて、揺れずにいられる筈もない。

「是非!」
「あはは、迷いなしか。でもさすがにこの手の話で即決即断するのは危ないから、少し考える時間を取ろうね。あとでメールで資料送るから、よくよく検討してから決めて。求人出す予定なのもまだ半月くらい先の話だし、落ち着いて考えてやっぱりやめときますってなっても大丈夫だから」

勢い任せで頷いた私を落ち着かせるように、ポンポンと肩を叩いてくれる。
その手のひらの温かさに、泣きたくなるくらい癒される。

先輩みたいになりたい。
優しくて、面倒見が良くて、頼り甲斐があって、仕事ができて。
美人で、ユーモアもあって、でも全然気取ってなくて。
この人が男だったらきっと恋をしていただろう。
恋ではないけど、焦がれるように憧れて、少しでも近づきたいと想った人。
先輩がいてくれたら、あのどうしようもない上司の下でだって折れることなく働き続けられたことだろう。

先輩が辞めた時、本当は私も追いかけたかったくらいだった。
だから、先輩が誘ってくれるなら、それが仮にどんなブラックな職場だったとしても、きっと頑張れると思う。
さすがに本人に言ったら引かれそうだから言えないけど。

だって、転職を考えて人生の岐路に立った正にそのタイミングで先輩と再会できたのも、先輩の職場でたまたま求人の予定があることも、こうなると運命のようにしか思えないじゃない?
最終決定は先輩の言う通り、詳細な資料に目を通してからにするとしても、気持ちはもう完全に退職に傾いてることだし。
そうして私は、神妙な顔で先輩の真摯な忠告を受け入れて「よく考えてみます」と殊勝に頷くふりをしながら、早速転職のために必要なあれこれを素早く算段し始める。
また先輩と一緒に働けるかもしれないと、そのわくわくした気持ちに突き動かされて。





6/9/2023, 9:15:40 AM