ミミッキュ

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"恋物語"

 医者になったばかりで、まだ《天才》とは呼ばれていない頃。
「あの」
 病院のロビーで、後ろから不意に声をかけられた。
 普通なら驚いて身を固くしているのにその逆で、『なんて落ち着く低音だろう』と何故か穏やかな気持ちになった。
「はい」
 声の主は誰だろう、そう思いながらゆっくり振り向いた。
 持ち物や声色的に高校生か大学生くらいだろう。しっかりとした目鼻立ちで、黙って立っていれば大人に間違えられそうな端正な顔つきをしている。
 一瞬時が止まったかのように、どきり、と胸が鳴る。
「これ、貴方のポケットから落ちました」
 そう言って、丁寧に折り畳まれたハンカチを差し出した。
──本当に落ち着く低音だなぁ。テンポも早すぎず遅すぎずで心地良い。
 思わず聞き惚れてしまうが、顔を見て不思議に思う。
 会ったことは無いはずだけど、何故だろう、この人を知っている気がする。
 こんなに綺麗な顔をしている人に一度でも会っていたら、たとえ他人に興味が無くても忘れられるはずがない。何処かですれ違いざまに見かけたのだろうか。なら一体何処で……。
「俺の顔に何か着いてますか?」
 おずおずと声をかけられ、我に返り「えっ」と驚きの声が小さく漏れる。
「はっはい、俺のです。拾ってくださってありがとうございますっ」
 慌てて差し出されたハンカチを見て、自身の物だと認識し、慌てて答えて礼を言う。「いえ」と少し気圧されたような声が帰ってくる。
「ごめんなさい。人の顔をじろじろと……。えっと、何処かで、お会いしていませんでしたか?」
 謝罪しながらハンカチを受け取り、直球に聞いてみる。
「会った事はありませんが……。恐らく、父では」
「え?『父』……?」
 そこで、頭の中で何かが弾ける音がした。
 そういえば以前、院長に会った時『息子』の話をしていた。確か年齢は、目の前の少年と同い年くらい。
 言われてみれば、どことなく院長の面影を感じる。何処かで会った気がして当然だ。
「君が、院長の息子さん?」
「その口ぶりは……また人の話をしたのか……」
 片手で頭を抑えながら呟いた。この言い方をするということは、常習犯らしい。
「ということは、新入生ですか?」
「はい。貴方の後輩、という事になりますね」
「え、俺が卒業生だって知っているんですか?」
「はい。父が『凄い逸材が来た』って言ってました」
──あの人……。
 どうやら、お互いの存在を院長経由で知っていたらしい。
「すみません……父が……」
「いえ……」
 沢山の人が往来する病院のロビーで頭を抑える医師と学生、というなんともシュールな構図ができてしまった。
 数秒の沈黙の後、「あの」と声をかけられ「はい」顔を上げる。
「まだ入学して間もなく、大学での生活やルールがいまいちよく分からないので、卒業生である花家先生から大学の事教わりたいので……」
「え、俺が……?」
「実際に通って学んでいた卒業生から聞いた方が理解しやすいかと思ったので……。あと、できれば勉強も見て貰えませんか?」
「別に構いません、けど……目指している科があるって……」
 その科は確か『外科』だ。細かくは決まっていないが、揃えている参考書等を見るに外科の道を行くのは確実だと聞いた。対して俺が身を置いているのは放射線科。大意は『内科』だ。正反対すぎる。
 いえ、と首を横に振りながら言葉を続ける。
「流石に細かな事までは聞きません。要点や、抑えとくべき点を教えて欲しいんです」
 確かに最初の頃は知らない単語の羅列で、何処をどう見ればいいか分からない。それくらいなら、科が違くても教えられそうだ。
「分かりました、引き受けます。不束者ですが」
「お願いします」
 そう言うと隅に移動して、メモ帳とペンを取り出して何かを書きだした。ペン先を収納してペンを仕舞うと、メモ帳の一番上の紙を破り取ってこちらに戻って破り取ったばかりのメモ用紙を差し出した。
「俺の連絡先です」
 そこにはチャットの個人番号と同じ羅列の番号がボールペンで綺麗な字で書かれていた。受け取ると二つ折りにして胸ポケットに仕舞う。
「ありがとうございます。夜中になると思いますが、登録したら直ぐにメッセージを送ります」
「はい。……あと、敬語はいりません。先輩と後輩ですから」
 先輩、と言葉を発した時にこちらに手を差し出される。
──先輩……。
 まさか卒業してからも『先輩』と呼ばれるとは思っていなかった。『先輩』と言われるのは何度でも嬉しい。自身の顔が緩んでいくのを感じ、頬を小さく叩いて引き締める。
「わ、分かっ、た。……じ、じゃあ……後で連絡、する、からっ」
 そう言って片手を上げると、向こうも片手を上げて「はい、待ってます」と答えて身を翻し、病院の正面玄関をくぐって外へと消えていった。

 この時、まさか数年の時を経て恋仲になるとは、思いもしなかった。
 ここから恋に発展するとか、今考えても考えづらい。
 向こうはこの時俺に一目惚れしたらしいが。
 飛彩は気付いていないだろうが、この時拾ってくれたハンカチを大切な思い出として、今も大切に持っている。

5/18/2024, 1:06:52 PM