気まぐれなシャチ

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Day.29_『光と霧の狭間で』

「……あれ、ここは?」

気がついた時には、私は何も見えない、霧がかった場所に立っていた。寝巻きで裸足。足元には、水門が描かれている。知らない場所だった。

「おや、珍しい人がおるね」

そう聞こえ、後ろに振り向く。私の位置から少し離れた場所に、人影が見えた。しかし、霧が濃いのか、その人物の顔や容姿を見ることはできない。ただ、声だけは、どこか聞いたことのある声だった。

「お前は、まだこちらに来る時ではないんだけれど」

たしかに、聞いたことのある声。この嗄れた、女性の声。何度も思い出そうとするが、頭痛がするだけで、思い出すことができない。

「どうしてここに来てしまったんだい?」
「『どうして』って……寝てたら、ここに……」
「そうかい……寝てたら……そうかい、そうかい」

人影でも分かる。この女声は、頷いていると。

「どうしたら、戻れるの?」

私は問う。普通、初対面の相手には敬語を使うものだ。しかし、私の口から出たのは、タメ口だった。「いけない!」と思い、口を手で覆うが、その人物は何も気にしていないように話し始める。

「お前の後ろ、光が見えるだろう?」
「光?」

私は振り返る。そこには、確かに白く淡く光っている光が遠くにあるのが見えた。

「あれに向かって歩きなさい。決して、後戻りすることの無いようにな」
「ありがとう!『ばぁば』!……えっ?」

咄嗟に出たそのワードに、私は思わず振り返った。しかし、そこには既に、先程の人影は無く、ただ、霧が広がっているだけだった。

「ばぁば……?いや、そんな訳、ないか……」

私は疑問に思いながら、その光に向かって歩き出した。

歩いていくと、その光は徐々に強くなる。そして──

「……ん」
「っ!『朱梨(あかり)』!」

目が覚めると、そこは病室だった。目の前には、涙を流している両親と、驚いた様子で見ている先生らしき人物。

「朱梨……大丈夫?」
「えっと……うん……」
「良かった……!」

母に抱きつかれる。意味が分からず混乱していると、先生が少し困惑しながら話してくれた。

どうやら、私は眠っている間に心筋梗塞になってしまったとの事。普段、起きる時間帯に起きてこない私を心配した母が部屋に入ったところ、息をしていなかったらしい。すぐに救急車を呼び、一時は危うい状態だったらしい。

(……っということは、あれは……夢?)

眠っている間に会った、あの人物……結局、分からず仕舞いだ。そんなことを考えていると、父が言う。

「今日は、『ばぁば』の命日なんだぞ……?」
「命日……?ばぁばの……」
「覚えてない?あんた、小さかったからねぇ……」

私は記憶を巡らせる。小さい頃の記憶。家の庭で、しゃぼん玉で遊ぶ私を、縁側で優しく見守ってくれていた人物がいた。一人は父、もう一人は母。そして、もう一人……

『綺麗なしゃぼん玉だねぇ。じょうず、じょうず』

嗄れた声の……『ばぁば』の姿。

「……そうだ」
「えっ?」
「思い、出した……あの人は……私を……」

助けてくれた。そう言葉にした時には、私の目からは一筋の涙が流れていた。
あの場所にいた、あの人物。あれは、小さい頃に面倒を見てくれた『ばぁば』だ。ばぁばは、十年ほど前に亡くなって、命日にはお墓参りに行っている。

「ばぁば……」
「朱梨……」

涙が次々と流れる。私は、しばらく病室で母に抱き寄せられながら、泣いていた。

そして、数日後。
私は、入院期間を終え、退院することができた。私は、その足でばぁばのお墓へと向かう。

「……遅くなってごめんね、ばぁば」

私はお墓に向かってそう言い、既にお供えしてあるお饅頭の横に、生前、ばぁばが好きだった、カステラを置く。線香をあげ、手を合わせる。

「色々、話したいことあるけど……これだけ、言いに来たんだ」

私は、まっすぐと墓石を見る。

「助けてくれて、ありがとう」

そう、言った時、急な突風が吹いた。木の葉が舞い、空に上がっていく。それは、まるでばぁばが、私の声に応えてくれたような気がした。

「……それじゃ、また来るね!バイバイ!」

私は手を振り、墓石に背を向け、歩き出した。

雲ひとつ無い、真っ青な空が広がっていたのだった。

10/18/2025, 1:46:11 PM