桜河 夜御

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『さよならを言う前に』 

 サービス付き高齢者向け住宅。高齢者が安心して生活できるように、看護師や介護士が常駐してサービスを提供している施設。
 一度入所すれば、その人にとってはこの施設が終の棲家だ。
 年と共に身体が不自由になり、自分で自分の世話ができない人や、認知症が進行した人たちが来る場所で、元気になって退所することはまずあり得ない。
 つまりこの施設が、最後の時間を過ごす場所になる。
 そんな所で働いていれば、当然それだけの数の家族模様も目にしてきた。
 こちらから連絡せずとも月に数回、様子を見に来る家族がいた。きっとこの利用者様は元気だった頃、家族を想って生活していたのだろうということが、その様子から伝わってくる。
 その想いが巡りめぐって、年老いた本人への思いやりとして返ってきているのだろう。
 反対に、いくら連絡してもなかなか顔を見せない家族もいる。
 繰り返し連絡をして渋々対応してくれる家族もいれば、死んでも文句は言わないからと連絡を拒否する家族もいる。
 そういう家族はそうなるだけの、優しくなれない思い出がある。
 今まで我慢に我慢を重ねたものが、本人が弱者となった今に爆発し、牙を向いているのだ。
 その気持ちは、自分もよく分かる。

「ねぇ、お母さんが探してるけど、どうする?」
 今日は住宅のほうでいつものように仕事をしていると、同僚に声を掛けられた。
 母を自分が働く施設に入所させてから、よく聞く言葉だ。
「いないって言っておいて。後は相手せずに放っておいてくれていいよ」
「分かったー。ホント、嫌いだよね」
「うん、大嫌い。死んでもいいもん」
「じゃあ適当に誤魔化してくるわ」
「よろしく。ごめんねー」
「はーい」
 冗談半分、本音半分……いや、本心が八割くらい。このやり取りも、毎回のこと。
 聞いてきた同僚は高校生からの付き合いで、こちらの事情はよく分かってくれている。
 だから一応、家族への最低限の対応として聞いてくれただけで、最初からこちらが返す答えはいつもと変わらないことくらい予想していただろう。
 いつものように軽いやり取りをして、母の部屋へと歩いていった。
 
 あの人は、いつまで経っても子どものような母親だった。そもそも、あの人から母親らしいことをされた覚えもないけれど。
 我が儘で、理不尽で、自分勝手で、自己中心的で、メンタルが弱すぎて面倒なくせに怒りっぽくて我が強い。
 上げればキリがないほどに、あの人の嫌いな部分は次から次へと思い出される。
 だから昔から嫌いで、自分自身が大人になるほど大嫌いになっていって、不慮の事故で死んでくれないかとすら思うこともあった。
 というか、今でも思っている。
 最初は老後の面倒を見ることも放棄しようと思っていたのだ。一人寂しく野垂れ死ねばいいと。
 けれどその話をさっきの同僚兼友人にした時、こう言われた。
「あんたの性格でそれやると、実際死んだ時に後悔すると思うよ。ここに入れたらいいじゃん。そしたら後は放っておけばいいんだし」
 そのお言葉に甘えて、母は入所し、自分は介護担当から外れた。
 施設には入れたし、必要なものは都度買い揃えている。最低限、やるべきことはやっている。
 だから、これでいい。これが正解だ。

 それは本心だった筈なのに。母が死んだ夜、そこに空虚があった。
 胸の真ん中に穴が空いている気がする。真っ黒な穴だ。そんな訳がないのに、隙間風すら感じた。
 やっといなくなってくれた。こんなに嬉しいことはない筈なのに、喉が詰まる。
 たぶんこれは、後悔だ。やりきったつもりで、いい選択肢を選んできたつもりで。それでも、後悔している。
 なら、自分は一体どうしたかったのだろう。どうすれば良かったのだろう。
 早く来いと願っていた最期の日。いつか来ると分かっていたこの、別れの日。
 この日が来る前に、何故。何故、許せなかったのか。
 ――色々な思いが降り積もりすぎて、許し方なんて分からなかった。
 せめて、一度だけでも顔を見せて。さよならを言う前に、他に言葉はなかったのか。
 ――どんな言葉を掛けろと言うのか。あの人に、今更優しい言葉など出てこない。
 何故、何故自分を産んだのか。選べるのなら、あなた以外の親が良かった、と。
 返る言葉がなくなる前に。独り言になる前に。そんな恨み言でもぶつけていれば、何かが変わっただろうか。こんな後悔を、抱えずに済んだのだろうか。
 優しい言葉ではなくても。例え、恨み言でも。相手ではなく自分の心を守るために、伝えておくべきだったのかもしれない。
 この日が来る前に、さよならを言う前に。
 
                  ―END―

8/22/2023, 12:10:36 PM