最近最近の都内某所、某稲荷神社近く。
深夜の丑三つ時だけ開いているおでん屋台。
後輩もとい高葉井という女性が、己の推しカプの左右2人に連れられて、おでんを食っている。
酒もあるようだが飲んでいられない。
推しである。推しの左側が自分の右に座っている。
そして推しの右側が、更にその右に座っている。
高葉井はそれだけで、完全にフリーズして、
そして目の前の皿の餅巾着と大根しか食えない。
なんということだろう。
推しの突然のはからいにより、高葉井の心が緊張で、一瞬にして凍結してしまった。
ところで高葉井の推しは、高葉井が固まってしまっていることを気にしていない。
気にする余裕も無いのだろう。
清潔に整えられたスーツを着こなした男性は高葉井を誘っておきながら、酷く考え込んでいる。
少しだけ推しカプ左側の——彼の職場の某管理局で「ツバメ」と呼ばれている方の、
目がアルコールで、トロンとしてきた。
「すまんな。放っといてやってくれ」
推しカプ右側、「ルリビタキ」が高葉井に言った。
「局内、特に俺達法務部内で、
高葉井、お前の異動のハナシが終盤なんだ」
私の異動?ルー部長とツー様の部署で?
高葉井は聞き返すことも、頷くこともできない。
ただ目をパチパチである。
「『全部決まってから高葉井に話せ』と言ったのに、こいつときたら、『それでは不誠実だ』と」
今は、付き合うだけ付き合ってやってくれ。
ルリビタキはただ、そう続けた。
何がどうしてどうなって、どういう奇跡が発生して劇的おでん接待になったのか、高葉井は情報が不足しているのでサッパリ分からない。
推しカプの左はこれで酒が6杯目。
いつもはコーヒーばかりの推しが、何かに——おそらく高葉井の知り得ない「高葉井の進退ないし部署異動」が原因で、苦しんでいる。
ツバメが屋台の店主にコップを差し出した。
7杯目。 高葉井の心は、ただ苦しい。
「あの、ルリビタキ部長」
「なんだ」
「ツーさま、 ツバメさんは、なんでこんなに」
「黙秘」
「せめて、何が法務部で話されてるかだけでも」
「黙秘だ」
「ルー部長」
「時が来れば話す。それまでは言わん」
「ぶちょう」
なんでだろう。何なんだろう。
高葉井は隣で秘匿に苦しむ推しカプ左側に、何をすることもできない。
ただ彼が、おそらく高葉井に言いたいであろうことを言えず、でも誠実な彼の性質として言いたくて、
その狭間で酒を喉に流し込むことで自分をなだめている様子を、見守るしかできない。
「時が来れば、話す」
ルリビタキは再度、高葉井に言った。
ところで突然ながら
今回のお題は「君が紡ぐ歌」である。
「どうしたの、ツバメさん?」
ツバメの酒の7杯目が半分まで減った頃、
高葉井は推しカプ左側が、なにか小さく、音を発しているのを敏感に知覚した。
「うた?」
それはとても小さな、祈りのような、高葉井が知っているミュージック・ライブラリの中には確実に存在しない1曲のような、
しかし確実にツバメの苦しみを乗せて出した、美しくも痛ましい歌であった。
「きれい」
心ここに無い、誰に自分の歌を聞かれているとも既に気にしていないであろう推しの歌を、
高葉井は黙って受け入れた。
ああ、ああ。推しよ。推しカプの左側よ。
君が紡ぐ歌は、なんと苦しいのだろう……
「いかん、高葉井、今日はココまでだ!」
ツバメの「美しい歌声」を察知したルリビタキは、ガタン!慌てて店主に代金を支払った。
「ツバメに付き合って飲んでくれたこと、俺から礼を言う。それと、すまんな」
彼はツバメを米俵よろしく抱え上げて、
ただただ、ドタバタ。
「え、え?どしたの部長、ルー部長?」
完全に素っ頓狂の高葉井である。
「こいつが上手く綺麗に歌えてるってことはだな」
思い出したように高葉井の分の飲食代も店主に渡して、ルリビタキが答えた。
「つまり、その、あのだな、
こいつの名誉のために、だいぶ隠すが、
要するにこいつが紡ぐ歌は『私は今急性アルコール中毒一歩手前です』のサインってことだ」
「きゅーせーあるちゅー???」
ああ、ああ。推しと。推しカプの左側よ。
高葉井はやはり、まだ目が素っ頓狂。
君が紡ぐ歌は、つまり苦しいということか。
高葉井はただ目を点にして、慌ただしく帰ってゆく推しカプの左右を見送るだけであった。
「どゆこと……??」
ツバメのシラフの歌唱力を高葉井が知ることは、当分、少なくとも10月いっぱい、無かった。
10/20/2025, 5:21:09 AM