薄墨

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ザーン、ザザーン
波の音がしていた。

時報のサイレンが鳴って、遠くで汽笛が聞こえた。
船が出るのだった。
弟が乗った船が、今出るのだった。

ザーン、ザザーン
波は絶えず押し寄せていた。

弟はこの島から出ていくのだった。
母の言いつけ通りに。
父の書き置き通りに。
ばあやの嘆きの通りに。
この島から出ていくのだった。

弟は、この島唯一の名家の世継ぎということを胸に、お坊ちゃんのまま、この島から出ていくのだった。
また、帰ってくるという約束を胸に。

今は、見送りの時間だった。
父や母や妹は、見送りに、港へ出ているはずだった。
もちろん、島の人たちも。

しかし私は、見送りに行く気にはなれなかった。
弟は優しい子だった。
戦争ごっこよりも、冒険よりも、父が教育のために考案したコインゲームよりも。
ただ波音に耳を澄ませて、海を滑るボーっと船を眺めるのが、好きな子だった。

でも弟はもう子どもではないのだった。
厳しい父の躾に密かに泣いて反抗していた子どもではないのだ。
優しいけれど足りない母に傷つくと分かっていながら甘えずにはいられなかった、小さな子ではもはやないのだ。
いつも私の後についてきて、ばあやにイタズラを仕掛けていたあの子ではもうないのだった。

弟は、大人になった。
姉である私より先に。
しっかり者の妹より先に。

弟は大人になった。
誰よりも早く。
そうして、大人になって、立派に島を出て、遠くの地へ足を踏み出そうとしているのだった。

波音に耳を澄ませながら、タンカー船や旅客船をただ眺めていたあの弟が。

浜辺に座って、私は海を眺めた。
弟の船を、ここで見送ろうと思った。
弟と船を見た、あの日々と同じように。

波音に耳を澄ませた。
ザーン、ザザーン
波は絶えず押し寄せていた。

波音に耳を澄ませて、船を探した。
ザーン、ザザーン
波の音がしていた。

7/6/2025, 1:46:16 AM