一尾(いっぽ)in 仮住まい

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→短編・呼び出しベル

 祖父はホテルを経営していました。海辺の街の小さなホテル。夏場は繁忙期だったので、祖父に夏のバカンスはありませんでした。
 私たち家族の夏のバカンスは、ホテル近くのヴィラを借りて、両親が祖父のホテルの手伝うことが恒例になっていました。
 弟と私は、祖父にくっついて朝のマルシェへと買い物に行くのが大好きでした。色とりどりの新鮮な野菜や果物が朝の陽光にキラキラと輝いていたあの風景は、今でも瞼の裏にはっきりと浮かびます。
 祖父は手際よく食材を調達しながらも、私たち姉弟に目を配ることを忘れませんでした。適度なルール(弟と手をつなぐこと、祖父のそばから離れないこと)を守っていれば、そのご褒美に飴とグミを買ってくれました。
 祖父はそんな風に私たちを可愛がってくれるものですから、弟と私は祖父に付きっきりでした。レセプション奥の小部屋に待機する祖父と本を読んだりじゃれ合ったりしていました。そのうちに、
―Ring Ring …
 呼び出しベルが鳴り、祖父は泊まり客の相手をするため、小部屋を後にします。それまで私たちの『おじいちゃん』だった祖父が、他人のようなよそよそしさでセカセカと出てゆく様子に、何とも言えない寂しさと白けた気分にさせられたものです。それは大人の世界の入り口でした。
 そんなことが引き金となって、弟と私が共謀して呼び出しベルを隠す事件を起こしたのは、今でも家族の語り草です。
 時がすぎて、祖父の耳に呼び出しベルの音が聞こえづらくなり、ホテルの管理が杜撰になった頃、私たちの両親の勧めで祖父はホテルを閉ざしました。やっとバカンスを楽しめるよ、と皮肉めかして口角を上げたその顔を、笑顔と呼んでいいものか私は未だに判断できません。
 晩年の祖父は、ホテルを辞めたことを忘れて、ホテルのことばかりを話していました。彼の話の中で、私たち姉弟は幼く、私たちの両親はまだ若く、彼は活力あふれる働きっぷりを誇っていました。彼にとってもあの頃がホテルの黄金期だったのかもしれません。

「今週末のガレージセールに間に合うように荷物をまとめなきゃね」
 母の号令で、私たち家族は久しく足を踏み入れていなかったホテルに集まっていた。弟は彼女連れ、私は夫とともに。
 ホテルの売却が決まったのだ。購入者はアパルトマンに改築するという。
 昔と同じように大騒ぎしながら、荷物をまとめる。昔と違うのは、ここはホテルではなく、滞在客はおらず、至るところに埃ばかりが舞っていること、そして、祖父がいないこと。
 3階から椅子を運びおりたとき、レセプションに小さなベルを見つけた。呼び出しベルだ。私たちに世間を教えたあのベル……。
―Ring Ring…
 私は奥の小部屋に耳を澄ませた。もちろん、祖父はいない。
「明日マルシェで飴を買ってやるよ」
 と、ラグを引きずり現れた弟。
「チーズとワインがいいわ」
 弟を手伝ってラグのもう一方を持ち上げる。了解、と弟は笑った。

テーマ; Ring Ring…

1/9/2025, 6:14:47 AM