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「もう遅いから」
彼女はいつもそう言って僕の部屋をあとにする。僕が露骨に寂しそうな顔をしているのか、彼女の察しがいいのか、とても優しい声色で
「またすぐに会えるから」
と頭を撫でてくれる。
それでも、次の週も、その次の週も彼女とは会えない。僕と彼女が会えるのはいつだって彼女の気分次第だ。しかしこの気持ちを誰かに打ち明けることは出来ない。僕たちの関係は秘密だから。
最後に彼女が会いに来てから2ヶ月が経った。深夜1時を回った頃、突然スマートフォンが震えた。飛び起きた僕は彼女からの着信を確認して、落としそうになりながら通話ボタンを押す。
「迎えにきて。駅にいるから」
「すぐ行く」
顔を洗って着替えて5分、車を飛ばして10分弱。駅に着くと、彼女は傘を持たずに軒下に立って僕を待っていた。雨の事などすっかり忘れていた僕は、出来るだけ彼女の近くに車を停め、さらさらと空気を湿らす雨を浴びながら、薄明るい蛍光灯の光を背にした彼女の元に駆け寄った。
水たまりを踏んだのか、彼女は濡れたつま先を見つめたまま、僕の方に目を向けずに
「遅いよ。寝てたの?」
と言って笑った。
「最速だと思うんだけど?」
湿気を吸った彼女の肩に触れ、抱き寄せようと思ったが躊躇い、指先を引いて助手席にエスコートすると、彼女はまたクスクスと笑いながら僕の寝癖を指摘してきた。運転席に座った僕の髪を触ろうとする彼女の手を握って真面目に見つめる。
「随分遅い呼び出しだね。こんな時間に来るならもう、今日はどこにも、」
口付けた彼女の唇は、いつもより冷たく、濡れていた。

10/25/2022, 5:02:49 AM