桜河 夜御

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お題「香水」

 人の記憶は、都合良くは出来ていない。
 忘れたい。忘れたくない。覚えていたい。そんな当人の思いとは関係なく、忘れたいことほど強く記憶に残っているし、忘れたくないものほど早く忘れていくものだ。
 それでも、人の記憶は儚いものだ。
 思い出したくない記憶には蓋をして、振り返らないようにしているうちに、本当に劣化していく。
 忘れたい記憶は、時間をかければゆっくりと、けれど確実に薄れていってくれる。
 同時に、忘れたくない記憶も劣化する。
 どれだけ覚えていたいと思っても、時の流れには敵わない。
 当たり前の事実に、少しでも抗いたい。
 その想いに、応えてくれる店があった。

「いらっしゃいませ。どんな香りをお探しですか?」
 『Re』という看板が掛けられた扉が開く音がして、振り返る。入口付近に不安そうに立ち尽くすその人に、店主は優しく声を掛けた。
 この店の噂は、必要な人から必要な人へ、自然と広まっていくらしい。必要のない人のところへは店の噂は届かないし、必要な人のところへは必ず届く。そういう風に出来ている。
 だから恐らくはこの人も、必要があったからここに来たのだろう。
 この店を必要としてここを訪れたのなら、その想いに応えなければ。
「えっと、あの……青リンゴみたいな、でもちょっと苦くて爽やかな香りで。それから……」
 店内に足を踏み入れたその人は、薄れ始めた記憶を必死に手繰り寄せながら、求める香りを語っていく。
「その人は、どんな人でしたか?」
「どんな……なんか、ヒーローだとか正義の味方だとか、みんなに言われるような人でしたね。頼られると断れなくて、いつも忙しそうで……」
 彼女は語る。思い出の中のその人の姿を。
 忘れてしまわないように、今日まで必死になぞり続けた、その面影を。
 人助けをするために、一体何度約束をすっぽかされたことか。遠くの他人ばかりを気にして、近くの身内はいつでも放っておかれたのだと。
 それでも、あの人は約束を忘れないから。
 約束を破ったことを気にして、いつだって駆けて戻ってきてくれる。それが嬉しくて、だから何度すっぽかされても、約束をすることが好きだった。
 でも、もう戻っては来ないから。
「忘れないって思ってても、気が付いたら、忘れてて。昨日まで覚えてたのに、もう今日は思い出せないこともあって。どうしようって思ってたら、ここの噂を聞いたんです」
 『Re』という店は、記憶の香りを再現してくれる、と。
 そのお店は駅前の大通り沿いという分かりやすい立地にあるのに、知っている人はとても少ない。
 噂を聞いた人が探しに行っても、どこにもなかったと言うこともある。
 けれど、噂を聞いた人は近いうちに、そのお店が必要になる。
 そうして再び探してみれば、以前はなかったその場所に、何故か『Re』の看板を見つけられるという。
「必要な人しか、このお店には来ないですから」
 話を聞き終えて、店主は迷うことなく精油を選び、香水を作っていく。
 ベースにするのは、彼女が最初に口にした香りであるグリーンアップル。そこにベルガモット、ジャスミン、サンダルウッドなどを適量。それらと無水エタノールをガラス棒でよく混ぜ合わせたら、スポイトを使ってシンプルなガラス容器に移しかえる。
「完成です。良かったら、香りを試してみてください」
 出来上がったばかりの香水瓶を受け取った彼女は、少し緊張した面持ちだ。
 複数の香水を試すのなら試香紙を使うところだが、ここでは毎回一種類のみ。なので本来の香水の香りを感じてもらいやすいように、直接肌に吹き掛けて試してもらうことにしていた。
 そっと、彼女が香水を吹き掛けると、ふわりと辺りに香りが広がった。
 フルーティタイプの、甘く爽やかな香りの中に一匙の苦味を感じる、そんな香り。
 その香りで、理解した。
 このお店の話をする時、誰もが口にする言葉。「記憶の香りを再現」という意味を。
 香りは記憶に紐付いている。まさにその言葉の通りに、広がる香水の香りと共に忘れかけていた思い出が蘇る。
 あの人の周りには、こんな香りが漂っていたんだった。こんな声を、していたんだった。こんな風に、笑う人だった。いつもこんな表情で、約束を破ったことを謝りに来ていた。
 そういう、時間と共に薄れていく、些細なことも。
「この香水があれば、ずっと、覚えていられそうです」
「それは良かった」
「あの、お代を……」
 言うと同時に、浮遊感に襲われる。一瞬意識が遠退いて……気付けば、歩道に立っていた。
 駅前の大通り。古いお店や最近新しく出来たばかりのお店が立ち並ぶ場所。
 ここに来たことは覚えている。自分の足で、確かに目的を持ってここに来た筈なのに、それが何なのか思い出せない。
 いつの間にか、手には香水瓶を持っている。持ってきた覚えもなければ、買った覚えもない。けれど、自分が持っているべきものだと、それだけは分かった。
 
 人の記憶は、都合良くは出来ていない。
 ほんの少し前のことすら簡単に忘れてしまうし、忘れたくないと思うことも、時間と共に忘れてしまう。
 それほどに、人の記憶は儚いから。
 何かに助けて貰わないと、ずっと覚えてはいられない。

                      ―END―

9/19/2023, 11:17:39 AM