過去において自分が幸運だったか、不幸だったか。稀にそんなことをちらと考えるが、その答は大体が「どうでもいい」だ。生まれた場所が、産んだ親たちが、生まれついたものが、そしてどう育ってきたか。そんなことはどう考えたって変えようがないし、変えたくもない。それらはすべていまの自分に絡みついていて、ひとつとして都合よく摘出して書き換えようとしたところでできることではないし、もしできたとしても、その結果を引き受けられるかは疑わしい。それに――
隣で、こちらに背を向けて寝ているひとに意識を向ける。いつも俺を好きにもてあそんで――満足してくれているかは疑問だが――ひとりで湯を浴びに行って、ひとりだけきちんと服を着て眠る、ちょっとだけひどいひと。今日は俺も体を洗うことができたからか、いつもより距離が近い気がする。たまにあるやたらと甘ったるくて却って居心地の悪くなる匂いのする石鹸ではなく、素っ気ない、安っぽい匂いがお互いの体からわずかにする。夜具から覗く肩と背中の線。貧しさからではない、その職業ゆえの一切の無駄をそぎ落した、無言でこのひとの生きざまを誇示するかのような線を見ていると、ひどく甘い気持ちにさせられる。
「――」
ただ、終わったあと、寝入ったあとに触れることは許されていない。手ひどく裏切られたために眠っているときに触れられるのは耐えがたい、下手をしたら絞め殺してしまうだろう――そう言われている。それがどういう感覚なのか俺には想像がつかなかったが、それが彼女に引かれた線であるのならば、俺はそれに従うだけだった。
そしてそれは俺にも言えること。ただ触れられることがないから示す必要のない、都合のいい線。生まれ、育ち、刷り込まれた風習と文化。それに彼女が触れることはない。触れる必要がないのか、触れることを避けているのか、そこまでは分からない。そしてそれらが俺がここにいる理由であり、俺がこの旅の先に始末をつけたいことでもある。ただ、その先に――
「起きているのか?」
「――」
不意に目の前のひとが、身動きひとつせずに声を発した。
「変な気配がした。強張った、あまりいい気分のしない感じだ」
「はい。あの、いつから――」
このひとはこちらを向かない。そこまでのことではないと思っているのか、こっちを見たくないのか、単に面倒だと思っているのか、それは分からない。
「そんなこと分かるか。気がついたら、だ」
「――」
「いつも言っているだろう。私を見ろ。お前にとって私は安い女じゃないだろう。捨てられたくなかったら――」
嫌です――その言葉のかわりに俺はこのひとの背中に貼りつく。
「つまらないことを考えるな、とは言わん。が、お前は私のものなのだろう?なら、」
声とともに背中が震える。心地のよい響きだ。
「すみません。今日はここで寝てもいいですか?あなたの背中で」
「――」
無音。思うことは、少しはある。ただ、それ以外は。
「ありがとうございます」
俺はこのひとのそんなに広いわけではない背中に額をつけ、礼を言う。
「――」
「――」
気配が和らぐ。
このひとも、俺もそれ以降言葉を発することはなかった。ほんの少しの夜が過ぎていく。
でも、このひとはきっとこう思ったのだ。
甘ったれめ、と。
そうだ、俺は甘ったれだ。甘えて、ぐずぐずに崩れて、堕落して。それでもその先に。
未来を引き寄せるしかないのだ。
3/25/2025, 6:36:35 PM