そのお客さんは、いつも良い香りをさせて私のカフェにやってくる。
「こんにちは。」
『いらっしゃいませ!!』
カランカランと扉を開けたのは、背の高い細身のお兄さん。私より二つほど年上でとても優しい人で、うちの常連さんだ。
『そちらの席にどうぞ〜』
「ありがとう。」
彼はお礼を言うと、軽く会釈をして案内した席へと座った。
私の前を通ったため、彼のまとっている匂いがほんのり香る。
『いい香り……。』
「え?」
席に座った彼が素っ頓狂な声を上げる。
しまった、心の声が漏れてしまっていたようだ。
『あ、す、すみません……。お客様いい香りだなって思いまして。』
もごもごとしながら白状すると、彼はフフっと笑う。
「すみません。さっきまでお店にいたものだから、体に匂いが移っちゃったんですね。」
スンスンと自分の腕の匂いを嗅ぎながら、困ったように謝られる。
『お店、ですか?』
「はい。私、紅茶屋を営んでおりまして。」
『……!紅茶屋、ですか。』
なるほど、今までさせてた香りは紅茶の香りだったのか。
どこかで嗅いだことあるような気がしていたのは、そういう事だったのかと納得した。
彼は胸ポケットを探ると、小さな袋を取りだした。
「こちらをよければどうぞ。」
差し出された袋を咄嗟に受け取る。
中には緑の茶葉が入っているようだった。
『えっ、これ。』
「差し上げます、最近入荷したので。良かったら味の感想も頂けると嬉しいです。」
『いいんですか?』
「是非、寝る前に飲むと睡眠効果もありますよ。」
確かにここ最近あまり眠れていない。
だが、紅茶は以前睡眠に効くと聞いて試したが、あまり眠れずに終わった。
せっかくの頂き物だし、効能とかは気にせず美味しく飲ませてもらおう。
ありがとうございます、と深くお辞儀をして、お冷を持ってくるために厨房へ引っ込んだ。
『ふぁ……疲れたぁ。』
ドサッと近くのソファーに腰を下ろした。
有難い事に、私のカフェには毎日数十人お客様が来てくれる。これを一人で回しているため、終わる頃には体がぐったりしている。
『これ以上増えたら、さすがに誰か雇わなくちゃなぁ……』
ぼんやりと考えながら呟く。
だが考えれば考えるほど頭が痛くなる。
お客が来ているとはいえ、十分に人件費に割けるほどそこまで裕福じゃない。
んー、と悩んでいると、昼間に貰った紅茶の袋が目に入る。
『とりあえずひと休憩しようかな、』
ゆっくりと立ちあがり、紅茶を入れに行った。
フワリ……
ティーバッグをマグカップに入れお湯を注ぐと、爽やかな香りでいっぱいになった。
『あ、これハーブティーか。』
少し蒸らし、ティーバッグを取り出すと、綺麗な薄い緑に色づいていた。
いただきます、と小さな声で言った後、ひと口啜る。
『おいしい……。』
ホッとする。
お風呂から上がって少し冷えた体に、ポカポカとまた温かさをくれた。
味もとても飲みやすく、以前飲んだ紅茶よりも早く空にしてしまった。
さすが、紅茶屋さんがおすすめしてくれただけある。
飲み終えてすぐ、布団の中へ入る。
普段ならお店の改善点を書き出したり、頭の中で色々と考えているところだが、体がポカポカしているせいかどこか眠たい。
『明日は、お休み、だし……ゆっくりして、も……』
気づけば意識を手放していた。
鳥のチュンチュン、という声で目が覚める。
時計は朝の九時。
いつもならお店の開店準備をしている頃だ。
休みの日でもお店に行って試作をしているので、ここまでぐっすり眠ったのは本当に久しぶり。
ゆっくり起き上がって、彼から貰った袋を見る。
すると、袋の中に小さなメモ紙を見つけた。
『何だろう……?』
カサリ、とメモを開くと小さめの文字で数行綴られている。
「こちらは “リンデン” という茶葉になります。
ほかのハーブティーに比べると飲みやすいんです。
それからカモミールも少しだけ混ぜてますが、リンデン自体も安眠効果に長けている紅茶なので、睡眠効果にとっても期待できると思います。」
『だからこんなに眠れたのね…』
ペラっと裏面を見ると、そこにも文字が。
「クマが酷いように見えます。同じく店を営む者として少しお節介やかせてもらいました。あまり無理はしないで。」
彼らしいとても柔らかい文章。
睡眠不足の悩みは誰にも言ったことはなかったが、どうやらバレていたようだ。
きっと、昨日元々このハーブティーを渡すつもりでお店に来てくれたのだろう。
本当に優しい方だ。
私のお店やコーヒーを好きできてくれるお客さんは沢山いる。その人たちのために、もっといい店にしようと今までずっと奔走し続けていたが、私が倒れてしまっては元も子も無い。
大事な事に気づかせてもらった気がする。
部屋の窓を開け、少し換気する。
風が入り、少し空気が冷たい。
こんな風を感じたのはいつ以来だろう。
最後に青空をしっかり見たのはいつだったか。
『今日は好きな事をしようかな。』
今はゆっくり休む。また明日から頑張るために。
そう誓って、窓を閉めた。
#紅茶の香り
10/29/2023, 1:47:05 PM