匿名様

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「自分の名前が嫌いなの」
人ひとり分の幅しかない、こじんまりとした石段の上、膝を抱えてうずくまった少女は言った。
辺りにあるのは人気のない古民家と、萎れた草の生え並ぶ畑ばかり。そのほんの隅っこ、建物の陰に隠れるように、埋まるように息を潜めた慎ましやかな祠がひとつ。
色合いも変わり、日が暮れ始める空の下。カラスがやかましく鳴き声をあげながら、少女と祠の頭上をさっと通り過ぎていく。

「おやまあ、そんなこと。勿体ないじゃないか。世界でただひとつ、せっかくあんただけが貰った贈り物だろう」

そう応えたのは名も知らぬ相談相手。それはふらりと鳥居の手前、少女の正面に立って心底不思議そうに眉を上げた。共感を得られなかった少女は、そっと何度目かもわからないため息を零す。

「貰ったんじゃない。押し付けられたの。赤ちゃんじゃあまともな文句も言えるはずないでしょ。まだそれが自分のものかどうかもわかんないんだから」

「いい名前だと思うがねぇ。代わりにおれが欲しいくらいだ。意味だってきっとあるんだろう。またなんで嫌いなんだ?」

「古臭くて、可愛くなくて、似合わないような気がしてなんだかぞわぞわするから。意味だって大したことない。これを『自分』だと認められないの」

今日は気分が落ち込んでいた。朝から食器を落とすし、授業や宿題では小さなミスを連発していたし、階段に足のすねだってぶつけた。どうにも上手くいかない日というのはあるもので、今日がたまたまそうだったと分かっていても納得がいかなかった。
いつもの帰り道から少しばかり外れた道の先に赤い鳥居を見かけてここまで来たのも、明日こそはいい事がありますようにとお願いしようとしただけだった。

ただ、そこに偶然、少女の浮かない顔を気にかけるひとが現れたのだ。
それについ頭と胸の中にぐるぐると溜まっていた不平不満をぽつぽつ吐き出してみれば、これがなかなか止まらない。とうには今日の出来事とは関係のない、以前から根ざしていたモヤモヤまでもが口をついて出た。
少女の悩みなど露知らぬ虫が、リーン、リーンと遠くで繰り返し鳴いている。それにしても今日はやけに人通りが少ない。

「ふぅん。まあ好き嫌いは誰にでもあるが……。でもあんたにはその名前があるから今の『あんた』になったんだろう。もし一文字だけでも違ってみろ。きっとあんたはまるで別の人間になっていただろうさ。
それほどまでに大事なんだ、名前ってのは。自分を自分たらしめる魂だからなぁ」

首を捻った相談相手は、やけに真面目な調子でそう諭す。
しかし他の誰かにどう言われようと、少女にとって名前というものは個々を識別するための記号にしか思えない。それがいかに変わろうと、あるいは存在しなくとも、意思がある限り自分は自分として生きていけるような気さえしていた。
不貞腐れたような顔をしていたからだろうか。そのひとは顎に手を当て少し何かを考える素振りをすると、いいことを思いついたと言わんばかりに、にんまりと目を細めて少女の前に屈んだ。

「ああ、でも。あんたがそれでも自分の名前が嫌いだって言うのなら、いい方法がある。
おれがあんたの名前を貰ってやろう。
おれはその名が気に入っていて、あんたは自分で新しく好きな名前を付けられる。どうだ、いいことだと思わないか?」

少女の方を指したそれの指がとん、と触れる。
その提案はとてもじゃないが信じ難く、それでも妙に魅力的に少女の心を揺れ動かした。
なんだか落ち着かない気分になり、少女は抱えていた足を一段下に下ろす。

「……できるの、そんなこと」

「もちろん、勿論。簡単なことさ。今のおれにはそれを可能にするほどの名前がある。あんたがいいと言ってくれさえすればほら、コン、とあっという間さ。
あんたの嫌いな自分の名は、もうあんたのモンじゃあなくなるんだ」

訝しげに眉をひそめる少女に、それは朗らかに笑ってみせる。触れていた指はすぐに離れ、その手は人差し指と中指と親指で何かをつまむような形に、いわゆる『狐』のポーズに変わった。それが一体何を意味するのか少女にはわからなかったが、しばしの沈黙の後、彼女は躊躇いを残しながらも首を縦に振った。

「わかった。じゃあやってみてよ。こんな名前、あなたにあげる」

別に出来ると信じたわけではない。でも、もしも手放せるのなら手放してしまいたかった。
その言葉を返した途端、相談相手は細めていた目をぱっと見開き、心底嬉しそうに声色を弾ませる。

「それは本当か。ああ、いや、嘘か誠かなんてどうでもいい。由来が好奇心だろうと、心からの願いだろうと、今あんたが言った言葉がここでの全てだ。
名前がなけりゃあ何にでもなれるが、名前がない限り何者にもなれない。
よかった、よかった! 親切なあんたのおかげでまたおれは何者かになれる!」

『ちっぽけな神の名を奪って騙ったかいがあった!』
そう愉快そうに声を上げるそれに、少女は自分が何か大きな間違いを犯してしまったと悟る。
今まで誠実に向き合って話を聞いてくれたいいひとの姿はそこになく、見上げた先にいるのは少女を逃がすまいと出口をふさぐ、大きなわるい何か。
鳥居の向こうに見える景色は、いつの間にか不自然にぼやけていた。生き物の声も気配も消え失せて、自分だけが知らないどこかに取り残されたよう。

「大切にしろといっただろうに」

隣の草は青く見える。名のない化け物は名を欲しがる。
少女が青ざめて立ち上がるより先、それは狐を象った手をぱっと開き、まるで噛み付くようにまた指先を揃える。
コン、と鳴く暇もないうちに、この場には魂を失った抜け殻だけが残された。


【私の名前】

7/21/2024, 6:57:52 AM