蛇川家に生まれたひい。
大きな屋敷に住み、きれいなおべべを着て、
豪華な食事が運ばれ――。
庶民からしたら何不自由ない暮らしに思えたが、
ひいはちっとも幸せじゃなかった。
その理由は、家の主であるおじい様の存在にあった。
母を早くに亡くし、祖父の庇護の下に育ったひい。
しかし、おじい様と顔を合わせる度に、
まるで蛇に睨まれた兎のように、
体がこわばり、声すら出せなくなるのだ。
そんなおじい様も今日は出かけている。
ひいは、人気のない広い庭で一人遊びしながら、
そわそわと何かを待っていた。
遠くからかすかに祭囃子の音が聞こえてくる。
「ひい!」
その声にぱっと顔を上げると、木の柵の隙間から、同い年ほどの子どもがひょこりと顔をのぞかせていた。
この子はなぎ。
最近仲良くなった近所の子どもで、
ひいはなぎと遊ぶことが唯一の楽しみだった。
「祭り行こうぜ!」
――
ぴぃ~ひょろひょろと風に乗って
聞こえてくる水笛の音。
籠の中でぴいぴいと鳴いている
赤、青、桃、緑に染められたヒヨコたち。
甘辛いタレの焦げる匂いが、空腹を誘う。
二人は買ったイカ焼きを食べながら、
屋台をめぐり歩き、やがて一つの
見世物小屋の前にたどり着いた。
人だかりをかき分け、最前列へと潜り込む。
壇上にいたのは、艶やかな黒髪の、
着物姿の美しい女。
女は小ぶりの蛇を手に取り、
ぺろりと舐めたかと思うと、そのまま口にくわえ、
むしゃむしゃと食べ始めた。
「わっ!」
「うげー、きもちわりぃ」
なぎは舌を出し顔をしかめて、ひいは両手で顔を
覆いながらも指の隙間からその光景を凝視していた。
――
「今日は...…楽しかったね、ありがとう」
「おうよ!また遊ぼうな」
歯を見せて笑うなぎにつられて笑顔になるひい。
二人は別れて、ひいは使用人たちに見つからぬよう、こっそりと屋敷に忍び込んだ。
――
「坊ちゃん、もうお休みの時間です」
能面を被ったような無表情の女中が
ひいにそう告げる。
ベッドに潜り込んだひいは、
今日の出来事を思い出していた。
特に、見世物小屋で見たあの女の姿が、
脳裏にこびりついて離れなかった。
真っ赤な舌で舐め上げ、
ゆっくりと喉の奥へと呑み込んでゆく。
大蛇に絡みつかれ、長い尾を口いっぱいに
押し込まれ、もがくように顔を歪めるなぎ――。
そこでひいはっとした。
いつの間にか、女の姿がなぎに変わっていたのだ。
ひいは空想を追い払うかのように、
頭をぶんぶんと振り、布団をかぶった。
胸がどくん、どくんと脈打つ。
あんな気持ちは初めてだった。
それからというもの、ひいはあの日の光景を
思い出しては、一人悶えるのであった。
お題「まだ知らない世界」
5/18/2025, 8:39:38 AM