結城斗永

Open App

 ――金木犀って健気だよね。日本には雄株しかないのに、こんなにも甘い香りを放ち続けてる。

 柔軟剤が並ぶドラッグストアの棚の前で、僕はあの日彼女が公園で言った言葉を思い出していた。
 この時期になると、彼女はいつもこの金木犀の香りがする柔軟剤を選んでいた。
 だから、いまでも僕は無意識にそれを手に取ってしまう。

 彼女がこの世を去ってから間もなく三年が経とうとしているのに、こうした無意識は未だに僕の周りから消えることはない。
 今朝も朝食の間、気づけば彼女が好きだったラジオ番組を流していたし、珈琲を淹れるときにもついつい二人分の豆を入れていた。
 彼女は茶色い角砂糖が好きだったから、僕の家にある角砂糖はいまも茶色い。
 洗濯機を回している間、読書をしながら流していたのも彼女が作ったプレイリストだったし、リビングに漂っていたのは彼女の好きな柔軟剤の香りだった。
 
 これは、未練とはまた少し違う。
 なんていうか、当たり前にあったものがそのまま続いてる感じ。
 正直、家族以外で誰かと一緒に住むというのは彼女が初めてだったから、それまではラジオを流しながら朝食をとることもなければ、時間をかけてコーヒーをドリップすることもなかった。
 角砂糖なんて男の一人暮らしの家にはなかったし、読書をしながら音楽を聴くなんてこともなかった。
 もちろん、金木犀の香りがする柔軟剤を買うこともなかった。
 それらはすべて、彼女が教えてくれたことで、彼女が幸せそうにしている時間だった。
 そして、彼女がいなくなった今も、習慣のようにずっと続いている。

 数少ない友人には『新しい彼女を作らないのか』と尋ねられることもあるが、この三年間でそんな気持ちになったことは一度もなかった。ただ、これも未練とは少し違う。
 もともと人付き合いが得意なタイプではないし、人の集まる場所も得意ではないから、合コンや飲み会の類にわざわざ出向くこともない。一人でいる方が気楽だから、僕を取り巻く人間関係なんてそうそう変わるものでもないし、新しい出会いがあるわけでもない。
 こんな性格をしているから、彼女と出会う前も、別れた後も、寂しいと感じることは正直あまりない。

 そんな僕がどうして彼女に惹かれたのかと問われても、ちゃんと理由を説明できない。
 強いて言うなら、彼女が幸せそうにしていると、僕も幸せな気持ちになったから。
 彼女の幸せそうな顔を見たくて、彼女の好きなものを僕も好きになった。
 寂しいから一緒にいるんじゃなくて、幸せを共有したいから一緒にいたという感じ。
 そういう出会いは、作ろうと思って作れるものでもない気がする。

 ドラッグストアを後にして、いつものルートを歩いて帰る。この道も彼女と一緒によく通った道だ。
 途中にある小さな公園では、ちょうど金木犀の花がきれいなオレンジ色に咲き乱れていた。
 彼女が金木犀を見て健気だと呟いたのも、この公園だった。
 ――金木犀は何のために甘い香りを放つのかな。
 あの日、彼女は続けてそう呟いた。

 雌株もないのに甘い香りを放ち続ける金木犀の花。
 その時はうまく答えられなかったけど、今なら何となく分かる。
 そこにはもはや理由などなくて、金木犀の長い歴史の中で体に染みついたものなんだろう。
 まるで今の僕みたいに習慣の中で無意識に続いていることのような。
 もう会えないと分かっているのに、それでも彼女の好きなものを無意識に選んでしまう――今の僕のような。

 オレンジ色の花が揺れて、甘い香りがふわりと漂う。
 この金木犀は、無意識の中で誰かとの出会いを求めているのだろうか。
 それとも、遠い故郷にいる誰かを思い続けているんだろうか。

#キンモクセイ

11/4/2025, 2:57:22 PM