紙ふうせん

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『ただ、必死に走る私。何かから逃げるように』

それは、夢なのか現実なのか、よく私にはわからなかった。
ここはどこだろう?そして今は何時?と、ふと思い時計を見ようとするが何故か時計はしていなかった。

私は家にいる時以外、基本かならず時計をしている。それもアナログな長針と短針の時計を。それは五年前の母のお誕生日に私がプレゼントしたものだった。仕事をしている母に、時計がかなりくたびれていたので百貨店に行き、好きなのを選んでよ、と言って選んでもらったものだ。

母は贅沢をしない人なので、百貨店に並んでいる時計の値札ばかり見ているので私が笑いながら、ちょっと値札じゃなくて時計を見て、と言ったのだった。私はこの日の為に貯金をしてたので、八万円くらいまでなら買えるよ、と言うと母はとんでもないといった風な顔をしてただ時計を見ていたら、店員さんが笑顔で、お母様の時計ですか?と言い、こちら辺り、いかがでしょうか?と出された三点の時計は、さすがにベテランの店員さんらしく、値段もそこそこ、時計もちょっとエレガント、クラシカル、少し若々しい物を選んでくれた。
すると母は意外にもちょっと若々しい物を手に取り、手首に当てて見たのだ。

それは、ちょっと若々しいと思われたが、最初からしていたかのように母の手首によく似合っていた。
これでいいのね?と確認し、さっそくその場でつけたのだった。
母は嬉しそうに、ありがとう、大事にするね、と笑顔で言った。

だから、交通事故に遭って病院に搬送された時もその時計をしていた。時計は動いていたけれど、母の鼓動は願いも虚しくもう動いてはくれなかった。

なので、母の形見としてその時計を私はいつもつけていた。そうしているとあの時の笑顔の母を思い出して、一緒にいるような気がするから。
その時計をつけていない?そんな馬鹿な。だったらこれは夢なのに違いない、と思った。

疲れていたりすると、妙にリアルな夢を見る。これもそうなのだろうと、夢の中?で思っていた。

でも、ヒールの靴を履いている足の下の砂利の感触、微かに吹く風、髪が風で乱れるので手で押さえた。
こんなにもはっきりとした感覚があるのだから、夢じゃない、とようやく結論づけた。
じゃあ、ここはどこなの?
あたりは真っ暗だった。そうだ、スマホ、と思いながらいつも仕事に下げて行くバッグを探ろうとして、バッグもない事に気づいた。

おかしい。何かがおかしい。
相変わらず今ひとつ現実味がないこの感じも何だろう。

気がついて、着ている服を見た。
いつも仕事に行く、スーツを着ている。という事は仕事の帰り?

いや、バッグも時計もしてないなんてそんなんで仕事に行くわけが無い。

仕方なく、少し歩き出した。
外なら、そのうちお店の一軒もあるだろう。
そのうち下がアスファルトの感触がした。車の通る道なら、誰かが通ったら尋ねてもいい。
そう思いながら私は歩いていた。

やっぱりおかしい。
時計がないのでわからないが、感覚的にはもう三十分は歩いている。しかし、何も変わらずただ暗いままなのだ。暗いので気をつけながら道の反対側に渡ってみる。ガードレールはあるけれどその先にはお店も家も何もなかった。
私は、記憶を遡ろうとした。しかしなんだか考えようとするとわからなくなる。なんとももどかしかった。
せめてスマホがあればな。そう思ったけれど、何も身に着けていなかった。
私は誰かに拉致されたのだろうか?
いや、そんな記憶はない。じゃあ今のこの状況はなに?
暗い中で何も音もしない。
ただ、私のヒールの音だけが聞こえている。



ここはどこだ?僕は思った。気がついたら、ここにいた、という感じだった。それまでの記憶が何もない。一瞬、記憶喪失かと思ったが名前も住所も、自分の勤めている会社の名前も全て覚えている。
スーツを着てネクタイをして革靴を履いている。では、どこかに出張に行ってたっけ?いや、そんな記憶もないし、第一、腕時計も仕事にいつも使っている鞄もなかった。
真っ暗でここがどこで今が何時なのか、どうしてこんな所にいるのか、まるでわからなかった。
初めは夢を見ているのかと思った。だが、それにしては意識や五感がしっかりある。それなのに、何故こんな知らない暗い所にいるのか、全く見当もつかなかった。
でも、アスファルトの道路があるという事は、どこかに繋がっているのだろう。そう思い、僕は歩き始めた。耳が痛くなるような静寂の中、自分の歩く革靴のコツコツという音だけが響いていた。



あたしは、どうしたのかさっぱりわからずただ立ち尽くしていた。
そんなに飲んだっけ?
息をはぁっと吐いてみたけれど、お酒のにおいは全くしなかった。
って事は、まだお店には出勤してないのかぁ。でもこんな真っ暗な時間なら、いつもはネオンがいやったらしくあちらこちらで光っているはずである。だってあたしはキャバ嬢だもん。
寒い、不意に思い、着ているものを見た。赤いキャミワンピースだけだった。それに後ろに線の入っているストッキングを履き赤いヒールの靴を履いている。これは……いつの服だっけ?
不思議と何も思い出せなかった。
いつも持っている手提げのビーズのハンドバッグもなかった。せめてストールか何か入っているかと思ったのに。
誰かしつこいお客にどこかに監禁されて逃げてきたのかな、とも思った。でもそんな記憶もない。なんで何もわからないのにそういう事はわかるのかなあ。とにかく見渡す限り何もない、こんなところに立っていても仕方ない。
あたしは暗闇にヒールの音だけ響かせて歩き出した。



私はだいぶ歩いた所でハッとした。離れているが、遠く微かに後ろから人の足音が聞こえる気がした。
これだけ静かなのだから、少しの音でもかなり響く。これは、これは革靴の音、男の人だ!私はもしかしたら追われているの?少し足を早めてみた。すると微かに聞こえる革靴の音も早まった。
やっぱりだ!誰かが私を追いかけて来ている!何故かはわからないが。何なのだろう。でも嫌な感じがする。逃げて損はない。男なら尚更だ。その人が私をここに連れてきたのだろう。
そして、追い詰めて、追い詰めて殺すの?殺すの?!逃げなきゃ!!
私は走り出した。革靴の音も走り出したような気がする。やっぱりだ。



僕は気づいた。かなり前の方で微かにヒールのコツコツという音がする気が。これだけ暗くて静かだから自信はないが、女性の足音のような気がする。すると、僕の足音に気づいたのか、前のヒールの音が少し急ぎ足になる。やっぱり人だ!僕の他にも人がいる。助かった!何かきっと事情を知っているに違いない。
だが、前の女性のヒールの音がなんと走り出したのだ。僕は何故逃げるのかはわからなかったが、事情を聞きたいので僕も走り出した。



うん?気のせいかな、足音がかなり前の方でする。いや、気のせいではない。やった!!誰かいるなら、あたしのこの今のわけのわかんない事も分かるかもしれない。
あれ?革靴の音だけじゃなくて、それよりかなり前の方でもヒールの音がする?そうだ!たしかにそっちはあたしと同じ女の人だ!ああ、良かった!
二人とも走っている?何かを見つけたのかな?だったらあたしも走って追いつかなきゃ!あたしは寒さも忘れて笑顔で走り始めた。




苦しい、苦しい。なんで追いかけてくるの?息が上がる。お母さん、助けて!これ以上走れない。でも追いかけてくる。私はもう汗まみれで必死だった。わからないけれど、私を追いかけてくる革靴の男。捕まったら殺されるんだわ。誰か、誰かいないの?もう声も出ない。ただ、ただ必死に走り続けた。なぜ走るのかもわからずに。でも、逃げなければ。





クソっ、何故走るんだ。何故逃げるんだ。僕はただ、話を聞きたいだけなのに。ネクタイを緩める。普段運動らしい運動もしていないから、革靴で走るのは辛い。その時、微かに遠くからだが、後ろから追われているのに気づいた。これもヒールの音、女だ。
何なんだ?何故前の女は逃げて、後ろからは追いかけてくるんだ?二人は知り合いで、僕に何かする気か?!
まさか、まさか、前の女はおとりで、後ろの女が僕を殺そうというのか?
こんな所で殺されてたまるか、足が重いが、とにかく必死に走って逃げるだけだ。




苦しいよ、はぁはぁと息が上がる。
だいたい普段からヒールで走る事なんてないんだもん。でも、なんでこんなにずっと必死に前の二人は走っているのだろう。足が痛くてもうだめ!あたしはヒールを脱ぎ捨ててストッキングの足で走り出した。
これでずいぶん楽になった。急に自分の足音がしなくなった。
そこで気がついた。もしかしたら、靴を脱いで誰かがあたしを追いかけているのかもしれないじゃない!
今のあたしのように。
そうか、前の二人も必死に逃げているんだ。
それならあたしも逃げなくちゃ。
苦しいけれど、こんな訳のわかんない所で人知れず殺されるなんて絶対にいやだ。汗で化粧が落ちてくるのも気にせず、とにかく必死に走って逃げるんだ。

5/30/2023, 1:20:11 PM