夜宵

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「あ、ちょっと、コウキくん」
「うん?」

 スマホの画面から視線を離さない彼に声をかける。顔は上がらないまま曖昧な相槌だけが返ってきた。

「今日ゴミ出しの日じゃなかった?」
「え? あー……ごめん、次から気をつけるよ」

 我が家は日毎に家事を分担するスケジュールを組んでいる。毎月一日にカレンダーを張り替えて、共働きの私たちはちゃんと仕事量が半分になるようにしている。

 今日はコウキくんがゴミ出しを担当する日で、それを彼が忘れていたという話だ。

「それだけ?」
「それだけって? あ、まずい」

 未だに彼と目が合わない。ゲームの中の彼が大ダメージを食らったらしい。仲間のソフィアちゃんとかいう僧侶に回復してもらって、再び攻撃フェーズに入る。

「約束、忘れたの?」
「だからなんだよ。今ちょっと忙しい……」

 同棲当初に決めたルールを忘れるとは……逆に言えば、彼がこれまでその約束を忘れるほどに家事分担をしっかりとこなしてくれたということだろうけど。少し寂しい気持ちを抱えながら、彼の勝利を待つ。

「セーフ……」
「ちょっと?」

 しまった、周回だったらしい。もう次の戦闘に入ろうとする彼のスマホを取り上げて強制的に顔を上げさせる。

「あ、おい。もう始まっちゃうだろ次が」
「ホントに約束忘れちゃったの?」
「……忘れたって、返して」

 少し伏せ目がちになる。本当に忘れたのか少し怪しい反応だ。何か隠しているような……実は覚えているような感じがするけど、どちらにせよ問いたださねばならない。

「何隠してるの?」
「いや、マジで……今日は勘弁して。明日やるよそれは」
「今日なんかあるの? 出かけるの?」

 彼は黙って頷く。

 今までそんな雰囲気はなかったけど……この状態でも出かける予定を優先させるなんて、不倫相手とのデートしか考えられない。今まで浮気や不倫については我関せずを貫こうと考えていたが、いざされたとなると少しくるものがある。

「……別にいいよ。帰ってきたら話そう?」
「いや待って、絶対誤解してるって」
「いいよいいよ。誤解っていうならそれこそ帰ってきてから聞くよ」
「……あの、マジでユカが考えてるようなことじゃないから」

 なんだか彼の声を聞くのが嫌になって、話を最後まで聞かずに自室へ戻った。

 今まで、信じてきたのに。



 ガチャンというドアの開閉音がした。彼が帰ってきたのだろう。どんな話をされるか分かったものじゃない。寝たフリでもしていようと布団をもう一度深く被る。

「ユカー? 寝てる?」

 自室のドアを二回ノックされた。布団を強く握り締めて耐える。

「……入るよ?」

 無神経だな、と思いつつも抵抗はできなかった。私は寝ているのだから、仕方ない。

「ユカ……」

 多分、私の狸寝入りに気づいているのだなと思った。彼はゆっくりとベッドの方へ来て、近くにあった椅子に腰かけた。彼の部屋のゲーミングチェアとは違うけど、座り心地はどうなのだろうか。

「約束のは、ちゃんと明日やるよ。今日はホントにごめん」
「……」
「これ、今日の昼受け取りにしてたんだ。それでゴミ出しのことすっかり忘れてて」

 私が起きている前提で話を進める彼。今までロクなスキンシップもなくなっていたと思うけど、それでもなんとなく私のことを想ってくれているのが伝わった。

「……これ置いとくよ。起きたら見て」
「……ま、まって」

 部屋を出ていこうとする彼の小指を軽く掴む。あまり彼は驚いていない様子で、私が引き留めてくることも想定内だったらしいのが少し癪に障る。

「今、見るから。あとおかえり」
「うん、ただいま。その机の上のやつだよ」

 言われた通りに木目の机を見る。端っこの方に青い柔らかそうな小箱が置いてあって、それは私の好きな色だった。

「これ……指輪?」
「うん。ほら、改めてちゃんとしたやつ買うって約束したでしょ。今日で二年だし」

 付き合ったのも結婚したのも、世間的に見れば若い方で、お金の余裕もあまりなかった。同棲したてで一年目はお金の扱いにも苦労したし、指輪のことなどすっかり失念していた。

 約束を忘れていたのは私も同じだったのだ。というか、私の方が忘れてはいけないことを忘れていた。

「そうだ……ごめん、私」
「いいよ、いつもいっぱい頑張ってくれてるし。俺もごめん」
「うん。……付けてもらってもいい?」
「もちろん」

 彼は小箱を手にとって、中身を私に見せてくれた。小さなダイヤモンドが表面に散りばめられていて可愛いデザインだ。

「手出して」

 言われた通りにする。私の左手薬指から少しチープな指輪を外して、汚れひとつない綺麗なダイヤモンドの指輪を通す。サイズはピッタリで、二年前からあまり太っていないことに安堵した。

「似合ってる」
「うん……ありがとう」

 彼の左手薬指にも、同じようなほんの少し質素な指輪が光っている。

「明日はどうする? 水族館行きたいって言ってなかったっけ」
「え、付き合いたてとかの話じゃないの」
「いいじゃん。行こうよ。ゴミ出しのペナルティはそれでどう?」
「まあ、いいけど」

 我が家の家事分担を破ったペナルティは、相手の行きたい場所へデートに行くこと。私たちはあまり趣味が合わなくて、和食と洋食、バラードとロックなどバラバラだからこそこのペナルティにしたのに。

 彼の表情は、なんだか楽しくて仕方がないようだった。



――ルール

4/25/2024, 2:19:27 AM