もう一つの物語、ね…。
歳をとって思うんだが、一人のひとは皆、いくつもの物語を持っていて、ひとつの人生を複層的に生きているように感じる。社会の求めに沿って進む領域を持つ一方で、ひとりの個人として表現することを求める領域があり、基本的にはその両方が相互に調和しているならば、概ね人生も「穏やかな活発」とでも言うべき力が発揮されるように思える。
さて、「一般的見地というメガネを通して、他人が見る自分」について考えてみた。有り体に言ってしまえば、私自身はこれを重要視してない。私の生きる日々はこの人生が終わるまで、全て、ずっと、私自身の手を離れることはないし、私のあらゆる選択の結果を自分自身で受け取る責任と力も、私のものだ。「責任」とは「自由」のまたの名であり「尊厳」「力」の言い換えだ。「存在の尊厳」があるから「人格に自由」があり(何を考えるか思うかは自由だよね?)、「現実をつくり、選択する力(自分が考え思うことは自分の現実をつくる)」があるから「自分自身の選択の結果に責任がある」のだ。これに関しては永い年月をかけて考え抜いてきたが、「他の答え的な電球の閃き」にたどり着けない。…なので、他人が他人の思い込みメガネで私をどう見ようと、私が私をどう見るかということほど重要じゃないのだ。
なので、私には私にしか認識できないであろう私の物語を生きている。一方で、子どもの学校では「得体の知れない変わり者」などとクダラナクモメンドクサイ何かに引っ掛からないように、周りの人を不安にさせないための「多分、これがフツー」な振る舞いを心がけているのだ。…まあ、どう見えているのかは知らぬが。
周りに合わせた物語もあれば、自分独特の物語もあるのは、私の感覚では「きわめて普通で自然なこと」なのだ。
自分の道を、自分の命の行方を、自分自身以外のものに預けてしまっては歩けなくなるのも経験した。ひたすらに喜ばれたくて、自分の本当の気持ちに蓋をしながら尽くしても尽くしても、誰も本当には喜ばなかった。長年にわたる「しんどい努力」の果てには砂漠のような心象風景の虚しさが居座り続ける現実を、やっと認め受け入れた時には私は中年になっていたが、そのとき決意したのだ。「自分自身の真実に従う」と。
以来、私の日々から虚しさは去った。心の中から、涙さえ涸れる砂漠が消えた。自分の暮らしの中の、大切な物事に気づくようになった。
このことを何がしか表現したのは初めてだ。
これは私の、家族も友達も知らない、けれども間違いなく真実な、もう一つの物語だ。
10/29/2023, 6:28:59 PM