汐里

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「 …はぁ。 」
何度目だろうか。こうやッて溜息をつき、誰もいない駅のホームで独り静寂を噛み締めているのは。
始まりは、あの会社に入ッたところからだ。最初は上司も優しく、後輩ですらも分からないところを聞けば、丁寧に教えてくれていた。
だが、そんな時間は長くは続かなかッた。
研修生としての研究が終わり、いざその会社に入社して正社員になると、皆の態度が一気に変わッた。
冷たくなる…というより、無視されているという感覚が近いのかもしれない。
誰に何を聞いても「 自分で考えて。 」「 それぐらい分かるだろ。正社員なのにそれも分かんないのかよ。 」「 先輩な分からないことを、私が分かるわけないですよ。 」…。冷たく突き返され、もう二度と聞くなというオーラを醸し出される。
それでも会社は行き続けた。どんなに邪険に扱われても、どんなに冷たくあしらわれても、我慢強く行き続けた。
そんなある日のこと。その日は自分のキャパを遥かに超える膨大な仕事を任せられてしまッたため、残業して帰ッた。家族などはいない。恋愛など、あの会社では許されていなかッた。
電車通勤のため、残業があるとほぼ終電に乗ッて帰ることも少なくない。終電を逃すこともザラにある。
今日はいつもより少し早く終わッたので、終電は乗れるはずだ。久しぶりの帰宅に胸を躍らせながら、改札を通り、ホームへ降りた。
しかし、一歩遅かッたようだ。自分がホームに降り立ッた時、既に電車は発車していた。
私は呆然と電車の尻を見送る。
虚しさと悔しさと疲れで、私はホームの椅子にふらッと腰掛けた。
線路を挟んで向かい側には、高層ビルの立ち並ぶ都会の街並みが広がっている。
こういうビルが立つせいで、空が狭くなッていくという話を、どこかで聞いたことがある気がする。
テレビの情報番組か何かだッただろうか。よく思い出せない。
そういえば、最近テレビを見ていないな。働くのに忙しくて、スマホですら会社用のしか使えていない。
そんなふうに考え始めて、ふと思ッた。
何だか、ここは安心する。
すごく安心できて、落ち着く。
そう気がついた日から、終電を逃した日にはこうやッて駅のホームで自分を仕事から解放し、様々なことに思いを馳せるようにしていた。
今日ここへ来たのも、残業のせいで終電を逃してしまッたからだ。
それにしても、全く家に帰れないと、流石に寂しくなッてくる。
仲良くしていたご近所さんと顔を合わせていないな。隣に住んでいる母娘は元気かな。よくうちのベランダに遊びに来ていた猫のマロンは元気かな。
そんなことを考えていたら、自然と涙が出てきた。
自分はどうしてこんな生活になッてしまッたのだろう。何故あんな会社に入ッてしまッたのだろう。
後悔の念ばかりが、自分に襲いかかッてくる。
もう、死んでしまいたい。
自分がいなくなッたッて、あの会社にはいくらでも優秀な代わりの人間がいる。人一人くらい退社したッて。死んだッて。
その時だッた。
右側から突然強風が吹いてきて、私のジャケットを揺らした。
何だ?と思ッて顔を上げてみると、そこには綺麗な夜空のような色をした車体を持つ電車が停まッていた。
「 電、車…? 」
もう終電はとうの昔に過ぎたはずである。今まではこんな時間に電車なんて来なかッたのに。
すると今度はアナウンスが流れ始めた。
「 この電車は0:00ちょうど発、特急ヨミ行になります。ご乗車になッてお待ちください。 」
私が咄嗟に腕時計を確認すると、今は23:58。もうすぐ発車らしい。
ヨミ…というのはよく分からないが、とりあえず電車が来たのは嬉しいことだ。早速乗ッて家に帰ろう。
頬に張り付いた涙を拭いながら、私は電車に乗り込んだ。
車内は車体と違い、いつものごくごく普通の座席が並んでいた。
私は近くの角席に腰掛けると、窓の外を眺める。
ビル以外は何も見えないが、今思うとビルもネオンな感じで、夜空に華々しく映えている。
少し眠ろうか。
そう思ッて目を瞑ると、丁度電車の扉が閉まり、発車し始めた。
いつも乗ッている電車とは少し違ッて、大きな揺れも少ないし、まるでゆりかごの中で寝ている気分になる。
心地がいい。
私は電車で目的地に着くまでの、束の間の休息を貪るように眠ッた。

「 …ん? 」
ふと目を覚ますと、まだ電車の中だッた。
かたんことんと優しく揺れる、夜空色の電車の中。
「 やッと起きた。 」
その声にばッと顔を上げると、通路を挟んで向かい側の席に女の子が一人、座ッていた。
黒いワンピースに、薄い青のカーディガン。スカートは星が散りばめられた、さしずめ夜空のような色をしている。
「 君は…? 」
私がそう問いかけると、女の子は焦げ茶色の瞳をこちらに向けて、「 ミヨ。ミカノミヨ。 」と名乗る。
漢字を聞くと、彼女は胸元のポケットからメモ帳とペンを取り出すと、「 三ヶ野美代 」と几帳面な字で書いて見せてくれた。
「 おじさんは? 」
私は通勤鞄から名刺を取り出すと、彼女に差し出した。
彼女は私の名刺を見ると、「 じゃあ紺野さんッて呼ぶわね。 」と呼び名を決定した。
「 君は…どこから乗ッてきたの? 」
私の問いに、彼女は愚問だと言いたげにこちらを見る。
「 それを聞いてどうするの? 」
逆に質問されてしまう。私は言葉に詰まッた。
彼女はそんな私を見ると、細い足を組みながら私に問いかけた。
「 紺野さんッて○‪×会社に勤めてるのね。楽しい? 」
思いがけない質問に、私は曖昧な表情をして「 まぁ… 」と答える。
すると、彼女は眉ひとつも動かさずに、再び言葉を重ねた。
「 なら、どうして死にたいの? 」
彼女の問いに、私ははッと目を見開いた。
死にたい。
それは私が先程の駅のホームでぽつりと思ッたことである。
口に出してすらいないのに、どうして。
「 辛いんでしょ?辞めたいんでしょ?苦しいんでしょ?救ッて欲しいんでしょ? 」
彼女の怒涛の言葉責めに、私は少々面食らッた。
だが、彼女の言ッている言葉は私の思ッていることだッた。
辛い。辞めたい。苦しい。助けて。
何度そう思ッただろう。
何度そう願ッただろう。
涙が溢れそうだッた。
「 はい… 」
辛うじてか細い声が出た。彼女が動いて衣擦れする音が微かに聞こえる。
「 この電車は、死にたいという強い思いを持つ者だけが、乗ることの出来る特急黄泉行よ。 」
死にたい、強い思い、特急黄泉行。その言葉が意味するのは、自分は恐らく今一番死に近いということ。
「 そう、ですか…。 」
乾いた返事しか出てこなくて、それを聞いた彼女は眉をひそめた。
「 信じてないでしょ。 」
彼女の拗ねたような言葉に、私は慌てて首を振る。
「 そんなこと…!ただ…何で自分なんだろうッて。 」
私の呟きに、彼女はあからさまにため息をついた。
「 別に貴方のところだけにこの電車が来るわけじゃないのよ。勘違いしないで。 」
ぴしゃッと冷たい声でそう告げられると、私は首を縮めた。
「 それで…。死ぬ?生きる? 」
唐突な究極の質問に、私は動揺する。
「 へ…? 」
「 早く決めて。 」
彼女の急かす声に、私は少し考え込んだ。
今生きていたッてしょうがない。ならば、死一択である。
「 …死にます。 」
私の言葉に、彼女は少し目を開くと、ぎゅッと眉を寄せた。
「 後悔しない? 」
彼女の最終確認に、私は力強く頷く。
後悔しない。絶対に。
それを見ると、彼女は少し目を伏せて私に言葉を投げる。
「 じゃあ、黄泉行ね。いい夜空の旅を。 」
私は彼女にお礼を言うと、ふと上を見上げた。
その瞬間、私の身体は鳥肌に包まれた。
壮大な星々が群青色の空に散ッている。どこまでも永遠に続いているかのような、美しい星空。
思わず見とれてしまッた。
世の中には、こんなに美しい景色があるのか。
「 貴方は、優秀よ。 」
彼女の声のする方に目をやると、彼女も同じく空を見上げていた。
「 あんなブラック企業で働くような珠じゃない。もッと良い会社が必ずある。諦めなければ、見つかるかもしれない。 」
でも、と彼女は空から視線を逸らす。
「 それを綺麗事と捉える人の方が多い。貴方もきッとそう。それでも苦しい。死にたいッて思うはず。だから… 」
彼女の焦げ茶色の瞳が、星色に光ッた。
「 今晩…いえ、今世は、この電車でゆッくりしていて。そして、いつかまた生きてみたいと思うようになるまで、自分を慰めてあげて。 」
自分の視界がぼやけるのが分かる。泣いているのだと咄嗟に思ッた。
そしてぷちん、と耐えきれなくなッた雫が、瞳から零れ落ちる。
そうやッて視界がクリアになッた時、彼女は既にいなくなッていた。
彼女の座ッていた席は、車体と同じ、吸い込まれるような青色に染まッていた。

10/9/2022, 8:47:14 AM