『君の声がする』
聞こえるはずのない声を聞いた。
ここには誰もいない。
だからというわけではないが、その声が非在のものだと彼女は知っていた。
その声を最後に聞いたのは、いつだったろうか。
年単位、どころではない。十年、二十年、もっと前か。ここは時も暦も知らぬ場所。時の流れを数えるすべはない。
その声の主は彼女の妹のはずだった。
彼女はかつて《うたかた》と名のり、妹は《たまゆら》と名のっていた。この地に根づいて以来、彼女が名のることはなく、ゆえに、いまも彼女は《うたかた》と名のるべきなのか、自身でもわからない。
孤島の樹齢千年を超すほどの大樹のうろに抱かれて彼女は意識を澄ます。もちろん、妹の声が再び聞こえることはなかった。
召喚術師《たまゆら》が後継に選んだ男を《うたかた》も知っていた。双子だからというだけでは説明しきれない共振で、見も知らぬその男を知った。
その男がいなければ、せめて《たまゆら》と出会わなければ《たまゆら》は召喚術師として名を馳せたかもしれない。
もっとも仮定に意味はない。
《たまゆら》
彼女は妹の名を声に出せずに呼ばう。
――恋などするものではなかったのよ
名づけの秘技から洩れた名なき獣を喚び出し従わせる。召喚術師に感情は無用だ。恋など毒にしかなるまいに。
いま《たまゆら》が何処にいるか何をするものか、姉だった彼女は知らない。双子姉妹の共振能力はもはや失われて永い。
だけど、いま聞こえた声は確かにあの子のものだった。いつになっても姉とは姉にしかなれぬいきものだ、妹を思うとき幼な子を呼ぶように呼んでしまう。
《たまゆら》
(あなたが選んだ道、決断した結末)
そうであるのならそれが妹の運命だったのだ。
わかっていながら問わずにいられない。
(あなたはあれでよかったの?)
きっと妹は首肯するのだろう。誇り高い召喚術師として。
《うたかた》であったものは眼を閉ざした。
妹の声は聞こえなかったのだ。聞こえるはずない。
彼女の耳は既にない。大樹のうろに囚われた女から耳は失われている。彼女はもはやひとではなかった。
《たまゆら》
それでも最後に彼女は囁いた。失った唇が意識の裡で声を洩らした。
――あなたが幸せでありますように
聞こえるはずのない声。
見たこともない男への憎悪と軽蔑、そして妹の共振で彼女のなかに刻みこまれた恋情。
《うたかた》であったものが巡らせた幾多の想いも、きっと幻だったのだろう。
わたしはもはや樹でしかない
いもうとよ、あなたがじゅつをすて女となったように
わたしも樹なのです
樹は持たぬ耳で声を聞き、持たぬ脳で思考を巡らせた。そして、そのまま、女の意識は閉じた。
ひとりの女が失われた。
それとも、ふたりの女が。
2/15/2025, 10:43:45 AM