【88,お題:行かないで】
俺には父親が居ない、母さんが言うには事故で亡くなったらしい
だから俺はずっと母さんと二人暮らしだ、ずっと...
幼い頃の記憶は全く無い、この場所で、俺と母さんの家で
決して裕福ではないが、毎日楽しく過ごしていた
俺にとって母さんは誰よりも頼れる人だった
女手一つで俺を育ててくれた、嬉しいことも悲しかったことも一番最初に話したのは母さんだった
嬉しそうに今日あった出来事を語る俺に、母さんは笑って「じゃあ今日は、歩の好きなカレーにしよっか」と言ってくれた
この先何があっても母さんは俺の味方であってくれる、そう思っていた
...あの日までは
「ん...今何時だ...」
いつもよりも早く目覚めた朝、枕元の時計を見ると朝の4時
起きるのにはちょっと早いが、朝ごはんの準備でも手伝おうと思い、のろのろと上体を起こす
異変があったのは、その直後だった
ピーンポーン......ドンドンドンッッ
まだ朝の4時だ、にもかかわらずドアの向こうが騒がしい
何度もインターホンの音が鳴った、また酔っぱらいが部屋を間違えたんだろうか?
「警察です!ドアを開けなさいっ!」
警察、その言葉に寝起き直後の甘い熱が一気に覚めるのを感じた
ドアを殴り付けるように叩く、警官の口調は厳しい
止めてください!母がそう叫ぶのが聞こえた
...ガチャン!
ドアノブの回る音、警官が入ってきたんだ
「!ッ母さんっっ!」
警官が発している威圧的な大声は怖かった、でもそれ以上に母が何かされるという恐怖の方が強く
その恐怖に突き動かされるように、叫びながら扉を開けた......しかし、俺は警官に飛びかかることはせず
目を見開いて彫像のように動きを止めた、目の前の光景が信じれなかった、否、信じることを脳が拒否していた
「...は......?な、んで...?」
そこでは、警官に手錠を掛けられた母が、連れていかれようとしていた
「まって...なんで母さんが!母さんはなにもしてない!」
「落ち着いて、少年!」
「なんで!何でだよ!やめろっ!どうして、母さんっっ!!」
母さんが連れていかれる、最愛の母が、唯一の血縁が
殆ど悲鳴に近い絶叫を上げ、母を連れていこうとした警官に掴みかかった、引きちぎらんばかりに力を込めて母から引きはなそうと必死になる
だが、子供の力では鍛えられた警官にはかなわない
俺は為す術なく引き剥がされた、母は
「ごめんね、歩」
泣きながらそう言って、そのまま連れていかれた
「母さん!母さんっ!嫌だ!行かないで」
警官に羽交い締めにされながらも必死で叫び手を伸ばす
「落ち着いて、大丈夫だから」そんな声も全く耳に入らない
千切れそうなほど伸ばした腕は虚しく空を掻くばかりで、母には届かなかった
そして扉が閉まり、母は見えなくなった
その後聞いた話だが、俺が母親だと思っていた人物は
実際には血縁関係の無い他人で、幼い頃スーパーで1人になった俺を誘拐し
自らを母親だと偽って、ここまで育てたらしい
動機は、自身の子供が事故で亡くなり、俺がその子供にそっくりだったことから衝動的に...ということらしい
俺の本当の親は、父母ともに仲も良く。俺が誘拐された時から12年間ずっと諦めず、俺のことを探していてくれたそうだ
「翔太!あぁ良かった...ごめんねぇ、あの時私が目を離したからッ」
”翔太”が自分の本当の名前であること、目の前で泣き崩れているのが自分の本当の母親であること
それらを理解するのに数秒かかった
「大丈夫だったか翔太?変なことされてないか?」
目に涙を浮かべて、良かった良かったと笑う俺の父親
その顔はどこか俺に似ていて、眼鏡をかけた優しそうなタレ目が俺のことを見つめていた
「良かった...翔太が無事で...ッ」
「帰ってきてくれて嬉しいよ...お帰り、翔太」
知らない名前で俺を呼ぶ、知らない顔の両親
普通の子供なら両親に飛び付き、泣きながら今までのことを語るんだろう
でも、今までの俺にとっての母親は間違いなくあの人で
あの人から貰った、愛情も思い出も間違いなく本物で
「翔太?...大丈夫?」
違うよ...俺は、俺の名前は...
「きっと疲れてるんだろう、今日は早く休もう、何か食べたいものはあるか?翔太」
「そうね、何でもいいのよ翔太、遠慮しないで」
「カツ丼とかどうだ翔太!」
「それは貴方が食べたいだけでしょ!」
俺の好きなもの...
『おれ、母さんのカレー大好き!おいしい!』
『嬉しいこと言ってくれるじゃない!母さん、カレー得意料理にしようかな~』
.........
「寿司もいいよなぁ...あ、でもこの時間だと混むか」
「......がいい...」
ぼそりと発音した俺の声に二人が反応した
なになに?何がいいの?と、嬉しそうに聞いてくる
「......カレー...がいい」
「カレーね!じゃあ材料買って一緒に作ろうか」
「......うん......」
本当の親との再開を喜べないのは親不孝ですか?
犯罪者だった、偽りの母親にまた会いたいと思ってしまうのはいけないことですか?
俺は...
「味はどう?翔太」
「...うん、おいしいよ」
久しぶりに食べた誰かの手作りカレー、俺の大好きな母さんのカレー
「...ッ...」
それは酷く、涙の味がした。
10/24/2023, 11:40:02 AM