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放課後の美術室。西日が差し込む窓辺に、彼女はいた。光を受けた髪が、青く深い海のように見えた。
「また、描いてるんだ」
 僕が声をかけると、彼女は筆を止めずに微笑んだ。
「うん。今日の空、すごく綺麗だったから」

 彼女──瑞希は、転校してきてからいつもひとりで絵を描いていた。誰にも媚びず、群れず、でも不思議と人を引き寄せるような静かな魅力があった。最初はそれが羨ましくて、次第に気になって、それから僕は美術室に通うようになった。

「何を描いてるの?」
 覗き込むと、キャンバスには一面の青が広がっていた。深く、重たく、どこまでも沈んでいきそうな青。

「海?」
「違うの。これは空。あの日の空」
「どの日?」
「…夏の終わり、父と見た空。すごく晴れてて、でもどこか寂しくて。あの空を、ずっと忘れたくないの」

 瑞希の父親は、数ヶ月前に亡くなったという。話してくれたのはつい最近で、それまで彼女は何も言わなかった。ただ静かに、絵にだけ気持ちを落としていた。

「僕も…空、好きだよ」
 ぽつりと呟くと、瑞希は僕を見た。まっすぐな目。まるで深海に潜るような、不思議な静けさがあった。

「空って、悲しいときほど綺麗に見えるよね」
 彼女の言葉に、僕はうなずいた。

 それからも、僕たちは毎日のように美術室で並んで座った。言葉がなくても、絵の具の匂いと遠くのチャイムが、少しずつ距離を近づけてくれた。

 ある日、瑞希が一枚の絵を僕に見せてきた。
 それは、どこまでも青い空の下、小さな影が二つ並んでいた。ひとつは彼女、もうひとつは──

「これ、僕?」
「うん。隣にいてくれて、ありがとう」

 胸の奥がぎゅっとなった。声にならなかった言葉が、青の中に沈んでいく。でも、それでよかった。僕たちは、言葉よりもずっと深い何かでつながっていた。

 季節が変わり、空の色も移ろっていく。それでも、あの美術室の青だけは、今も胸の奥に焼きついている。

 青く、深く。
 それは悲しみであり、優しさであり──そして、恋だった。

6/29/2025, 11:02:56 PM