今思えば、彼女との出会いがすべての始まりだったと思う。
好奇心旺盛で、人懐っこい。寂しがりでありながら常に境界線を引いて、決してそこから内側には入らせようとしない。
それが彼女の優しさだと気づいた時には、世界の何もかもが変わってしまっていた。
正確には、今まで見えなかったものが見えるようになってしまったというべきか。
獣の耳や尾を生やした通行人。道の端に佇むうっすらと透けた学生。いつまでも遊び続ける子供の形をした影。壁や地面から生える、人の手足。
初めてそれらを見てしまった時には驚き、怖がりもした。何故こんな訳の分からないものを見ることになったのかと、混乱もした。
けれどそれだけだ。原因を恨むこともなく、しばらくすれば順応して、今はそれを日常として自然と受け入れられている。
後悔はない。例えあの日に戻れるのだとしても、きっと自分は同じことをしただろう。
そうでなければ、彼女は階段から落ちて怪我をしていた。下手をすれば頭を打っていたかもしれない。
それに見えるようになって、何もかもが悪いことに繋がる訳ではないのだ。記憶を手放してまで、元に戻りたいとも思わない。
「つまり、気にするなってことだよ」
そう言って、あれからずっと元気のない彼女に向けて笑ってみせた。
「馬鹿みたい」
俯いたまま、彼女は小さく呟いた。
夕暮れの教室内。外からは部活に励む生徒たちの声が聞こえるものの、自分たち以外に誰もいないここはとても静かだ。
「お人好し。単純。鈍感。楽観主義」
次々と溢れる言葉を否定しようとして、しかしその言葉が案外間違いでもないことに気づく。
周りから言われたことのある言葉ばかりだ。自分では誰にでも誠実にいようとしているだけなのだが、周りからは時にお人好しや鈍感そうに見えるのだろう。
楽観主義とは言われたことはまだないが、おそらくそう時間をかけずに見えるものを受け入れたのが関係しているのかもしれない。彼女とは違い、見えるだけで害がないのだからという理由では納得できないようだ。
「変態」
「それは……っ!」
方向性の違う悪口に、さすがに否定しようと声を上げかける。けれども不意に彼女を助けた時の状況が思い浮かび、言葉の代わりに顔がじわじわと熱を持ち始めた。
「あの時は、怪我をさせないようにって必死で……べ、別に下心があった訳じゃ!」
階段から落ちてしまいそうになった彼女を助けるためとはいえ、確かに抱き留めたのは少しばかり問題だったのかもしれない。けれど今まで彼女は、間近で目が合ったことで見えるようになってしまったのを何度も謝ったことはあっても、抱き留めたことに文句を言われたことはなかった。
何で今更、と半ば不思議に思って彼女を見る。俯く彼女の耳が微かに赤いのを見て、何も言えなくなってしまった。
顔がさらに熱を持つ。もう彼女のことを見られなくて、窓の外の景色を意味もなく眺めていた。
「女たらし。鈍感」
「なっ……!?弄んでもないし、そもそも遊び目的で近づいてないから!誤解だから!」
どんどんと不穏になっていく言葉。これ以上は止めなければと、逸らしていた視線を彼女に向ける。
一歩、距離を詰める。腕を伸ばせば触れられる距離。
彼女はまだ顔を上げない。しばらく彼女を見つめ、そっと手を伸ばす。
「触らないで」
拒絶の言葉に手が止まる。
深呼吸を一つ。まだ動かない彼女に向けて、さらに手を伸ばした。
「触らないでよ、お願い。今度は見えるだけじゃなくなっちゃう」
泣きそうな声だった。彼女の優しさが本心を隠してそれを言わせているのだと思うと、苦しくて堪らなくなる。
「――いいよ」
彼女に向け、告げる。
思ったよりも落ち着いた声が出たことに、密かに安堵した。
「君と出逢って、後悔なんて一度もしていない。君を助けたことも、見えなかったものが見えるようになったことも、全部後悔なんてしていないんだ」
きっと彼女が求めているのは、こんな言葉ではない。そう思いながらも、上手く言葉が出てこなかった。
鈍感だと言われたが、本当は彼女の気持ちも自分自身の気持ちも理解しているのだ。
ただ勇気が出ないだけ。彼女が敷いている境界線を踏み越えることが、今まではできなかった。
「あのね」
深呼吸をして囁いた。中途半端に止まったままの手を伸ばし、そっと彼女の手に触れる。
境界線を越えた合図。今まで見えていただけのものが、現実感を伴って存在し出す。
「あ……」
弾かれたように顔を上げる彼女と目を合わせ、微笑んだ。
「君が好きだよ。だから同じ世界にいさせてほしい」
ようやく言えた。安堵しながらも、緊張は解けることはない。
目の前の彼女は、驚いたように目を見張ったまま動かない。手が振り解かれていないことに一抹の期待を寄せて、彼女の返事をただ待った。
「――ずるい」
しばらくして彼女の唇から溢れたのは、直接的な返事ではなかった。
睨む目。しかしその頬を伝う滴は、それは拒否ではないのだと告げている。
「馬鹿。変態。のろま」
鈍感がのろまになった。思わずふふ、とかみ殺せなかった笑い声が漏れる。
睨む目が鋭さを増すが、彼女の悪口は不思議と心地が良かった。
「もう戻せないから。後悔したってしらないよ」
「後悔しないから大丈夫」
悪口の中に紛れる彼女の優しさが、愛おしい。嬉しい気持ちが抑えられず、触れていただけの手をそっと繋いでみた。
小さな手。彼女が近くなるなら、もっと早く境界を越えるべきだったとほんの少し後悔する。
そんな浮ついた気分を冷ますように、ふと鼻腔を人工的な香りが掠めていった。
クラスメイトの女子が使用している制汗剤の強い香り。視界の端、隅の席に座っていた影の話し声がしていることに今更ながらに気づく。
「――つまりは、どういうことよ?」
「だからぁ、彼氏が彼女をラッキースケベしながら助けてぇ、でもってきっといい感じのことを彼女に言いながら何にもしなくてぇ」
「うわ、さいてー」
「だよねぇ……んで、我慢できなくなった彼女が記憶を消すぞって別れを切り出したら、彼氏が慌てて告白したって感じ?」
思わず顔が引きつった。
彼女を見ると、うんうんと力強く頷いている。その反応から、影の話が傍から見た自分の行動だと知って肩を落とした。
「でもま、破局しないでよかったじゃん?」
「そうだけどさ、ずっと待たせといて、ようやくの告白の言葉が好きだよってのはなくない?愛してるくらい言えっつぅの」
遠慮のない会話に恥ずかしくなり、俯いた。
彼女もそう思っているのだろうか。気まずくて手を離そうとするが、固く繋がれて離すことができなかった。
逆に繋いだ手を引かれ、驚いて彼女を見る。意地悪そうに笑って真っすぐにこちらを見る彼女が何を期待しているかなど、一つだけだろう。
「――あ、あの、さ」
「しっかりしなよ、彼氏。男なら、がつんといきな!」
口籠ると、容赦なく影からの応援という名の叱責が飛ぶ。
声が聞こえるようになったから声が届くのだろうと、頭の隅で関係のないことを考えた。しかし現実逃避すら、影たちは許してくれないらしい。早くと急かされて、半ば涙目になりながら、口を開いた。
「君のこと……愛して、ます」
最後はほとんど消えそうな声ではあったが、しっかりと彼女には届いたようだ。途端に顔を赤くして、視線を忙しなく辺りに彷徨わせている。
影の歓声を聞きながら、今度はこちらが彼女を真っすぐに見た。すぐに何を思っているかを察して、彼女は微妙に目を逸らしながら囁いた。
「わ、私、も」
それ以上は続かず、ずるいなと思ってしまう。
けれど自分も彼女に酷いことをしていたようであるし、仕方がない。
いつの間にか集まってきていた人ではないモノたちの気配を感じながら、大変になるだろうこれからを思い深く溜息を吐いた。
20260505 『君と出逢って、』
5/6/2026, 3:05:23 PM