【もしも君が】
朝の光が差し込む小さな町のカフェ。まだ開店前の静かな店内に、ひとつだけ音があった。
「トントン…トントン…」
それは、小さな前足でガラスを叩く音。
振り返ると、そこにいたのは一匹の茶トラの猫だった。少し毛並みが乱れていて、首輪もしていない。だがその目は澄んでいて、まっすぐにこちらを見つめていた。
「おはよう、君。お腹すいたの?」
私はドアを開け、猫に声をかけた。すると、まるでそれを待っていたかのように、猫は「にゃあ」と一声鳴いて、ゆっくりと店内に入ってきた。
それからというもの、彼——いや、「トト」は、毎朝カフェにやってくるようになった。
ミルクを少し、クロワッサンの端っこを少し。客が来る頃には、カウンターの上で丸くなって眠っている。お客さんたちもそんなトトを見て、自然と微笑んでくれた。
「猫がいるだけで、こんなに空気がやわらかくなるのね」と、ある常連の女性が言ったことがある。
ある日、雨が降った。開店の準備をしながら、私はふと入口を見た。
いない。
いつもの時間になっても、トトは来なかった。
「どこかで雨宿りしてるのかな…」
そう思いながら、私はトトのために小さな毛布を用意した。
そして、二日目、三日目……トトは現れなかった。
心にぽっかり穴が空いたような気がした。たかが猫、されど猫。トトは、気づかぬうちにこのカフェの、いや、私の日常の一部になっていた。
七日目の朝、私はカフェのドアを開けて、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、少し濡れたトトと、もう一匹の小さな黒猫だった。
「…おかえり」
そう呟くと、トトは「にゃあ」と鳴き、子猫を先に店に入れた。まるで、「この子もよろしく」と言わんばかりに。
私は笑って、用意していた毛布を二つに分けて広げた。
「もしも君が、言葉を話せたら、きっとこう言うんだろうね。『大丈夫、ここならあったかいよ』って。」
そして今でも、カフェには二匹の猫がいる。
一匹は静かに眠り、一匹は好奇心いっぱいに店内を探検している。
訪れる人々は、彼らを見るたびに少しだけ優しくなる。
もしかしたらそれは、トトがくれた魔法なのかもしれない。
6/14/2025, 4:20:07 PM