汀月透子

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〈桜散る〉

 雨は、静かすぎるほど細かに降っていた。

 行き交う車の音も、どこか遠くで鳴っているようで、現実感が薄い。
 春の雨はもっと柔らかく暖かいものだと思っていたのに、今日は冷たくて、肌の奥まで染み込んでくる。

「桜、散っちゃうね」

 そう言った私の声は、思ったよりも軽くて、まるで誰かのものみたいだった。

 彼は振り返らない。
 少し前を歩く背中は、いつもより遠く感じる。歩幅が合わないわけでも、距離が極端にあるわけでもない。ただ、そこにあるはずの《何か》が、もうない。

 返事がないことに、驚きはなかった。
 ここ最近、ずっとそうだったから。

 雨に濡れた桜並木は、足元に淡い色の絨毯を広げている。薄桃色の花びらが水を含んで、重たく、踏まれるたびに音もなく崩れていく。
 彼の靴が、それを踏みしめる。

 黒い革靴の底に、花びらが貼りついては剥がれ、また次の一枚が潰される。その繰り返しを、私はただ見ていた。
 あの靴を選んだのは、私だった。

 就職祝いに、一緒に店を回って、何足も試して。
 結局、少し背伸びした値段のものを「長く履くなら」と言って決めた。彼はそのとき、少し照れたように笑っていた。
 あの笑顔を、もう思い出すのに時間がかかる。

 いつからだろう。
 話しかけるタイミングを探るようになったのは。
 沈黙に理由を探すようになったのは。
 手を繋ぐことに、躊躇いが生まれたのは。

 雨粒が、彼の肩口を濡らしている。傘を差しているのに、なぜか濡れて見える。もしかしたら、それはただ私の目が曇っているだけかもしれない。

「ねえ」

 呼びかけても、声は届かない。
 いや、届いているのに、拾われないだけだ。その違いを、私はもう知っている。

 風が吹き、枝に残っていた桜の花びらが落ちてくる。
 雨に押されるようにして、ひらひらと舞うが、雨粒をまとうとどこか諦めたみたいに真っ直ぐ落ちる。

 そのいくつかが彼の傘に触れて、すぐに滑り落ちた。
 彼は前だけを見て、歩き続ける。私は一歩遅れて、その後を追う。

 昔は、逆だった。
 彼が少し遅れて、私の隣に並ぶタイミングを見ていた。歩幅を合わせるのが得意じゃなくて、何度もぶつかりそうになって、そのたびに笑った。

 あのときの距離は、どうやって作っていたんだろう。
 今は、どうやっても埋まらない。

 足元に視線を落とす。
 濡れたアスファルトに、花びらが貼りついている。その上を彼の靴が通るたびに、形が崩れる。
 柔らかくて、軽くて、でも踏まれればすぐに壊れる。

 まるで、今の私みたいだと思った。
 言葉にしなければ、何も壊れない気がしていた。触れなければ、そのままでいられる気がしていた。
 でも、それはただの先延ばしで、もうとっくに崩れているのかもしれない。

「……ねえ」

 二度目の呼びかけは、さっきよりも小さくなった。
 彼は振り向かない。その背中に、もう期待していない自分がいる。期待しないことで、傷つく準備をしている自分がいる。

 雨が少し強くなる。桜は、さらに勢いよく散り始める。
 視界の中で、花びらが増えていく。落ちて、重なって、踏まれて、形を失っていく。
 彼の靴が、それを繰り返し踏んでいく。

 その光景だけが、やけに鮮明に焼きついていく。
 たぶん、これが最後なんだと思う。何が、とは言えないけれど。
 この時間も、この距離も、この沈黙も。
 全部が終わる手前の、曖昧な瞬間。

 私は立ち止まらない。追いつこうともしない。
 ただ、同じ速さで、少し後ろを歩く。

 彼の靴と、地面の花びら。
 その組み合わせだけが、なぜか美しくて、残酷で、忘れられないものになる予感がした。

 やがて、並木道の終わりが見えてくる。桜のない道に出れば、この景色も途切れる。

 その先に何があるのかは分からない。でもきっと、ここで終わる。
 名前もつけられないまま、形も残さずに。

 最後に、ひときわ大きな花びらが落ちて、彼の靴の先に貼りついた。
 それが一歩で潰れて、水に溶ける。

 雨は、まだ止まない。

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今年もまともに桜を見なかった気がします……繁忙期はまだまだ続きます(´・ω・`)

4/18/2026, 1:48:14 AM