Una

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「なんでよ!…私だけって…言ってたのに…」
「いや、だってお前さ、」
「なに?!まだお金足りない?!!もっと積めって?!」
「違ぇよ、そうじゃねぇって、話聞けよ、」
「なによ!!あんたも私のこと……」

喧嘩している二人の男女は、傍から見たらただのカップルでしかないのかもしれない。けど、私には分かる。あれはホストと姫。私の住む歌舞伎町ではいつもの光景すぎて、最近ではその真横を素通りするのが楽しみになってきているほどだ。今日も通りがかればいつもの二人。歌舞伎町のナンバーワンホストの男と、ホストを渡り歩いては自論を吐き出して出禁になることで有名な女。女はいつも男のズボンを逃がさんとばかりの力で掴んでいて、男がやっとこさ逃げれたと思えば、高そうなスーツにはシワが馴染んでいる。可哀想に思いながらも、今日も帰路に着いた。
家に帰ればこじんまりとした玄関が私を迎え入れた。買ってきた冷凍食品を乱雑に電子レンジに投げ入れる。電子レンジで温かくなったはずなのに、私の心は冷えきったままだった。スマホの写真フォルダを漁る。まだ気合いが入った化粧の私と、大好きだった彼。沢山の彼との思い出は写真になって残されていた。もうこの思い出たちは五年前のことだってことも、すっかり忘れていた。

__五年前、私は新入社員ということもあり、仕事に明け暮れる日々を過ごしていた。そのお陰か、仕事の飲み込みも早く、他の同期の子たちよりも結果が実るのが早かった。上からは認められ、下からは尊敬の目を浴びるようになった。自分の才能を認められる度に増えていく仕事量。認められるほど増える大きな商談。自分に課せられた責任感、上からの重圧。気付けば私の身体は、会社に行くことを拒絶し始めた。手足は痺れたように震え、喉が絞られているような感覚に襲われ、声が出なくなった。母に勧められて行った精神科病院で、私は鬱病と判断された。
会社には退職届を出して、実家に入り浸る生活が始まった。最初は外に出ることもままならなかったが、少しずつ外に出れるように練習をした。夜の散歩、早朝のランニング、母とジョギング、近所の人と挨拶。練習の成果もあり、一ヶ月が経つ頃には一人で買い物に行けるようになった。近所の人と会話も交わすようになった。

元通りの自分を取り戻せてきたある日、高校から疎遠になっていた幼馴染の麻弥から急に連絡が来た。
「久しぶりに会わない?それに今のあんたになら、私の秘密の花園を教えてもいい気がする」
"秘密の花園"が何かも知らないのに、なぜか心が高鳴った。会おうと返事をして、実際に麻弥と会って紹介された彼女の秘密の花園が、歌舞伎町のホストクラブだった。
「どう?一回入ってみない?」
その言葉に静かに頷いて麻弥の後に続いた。
席に着くと、早速私たちの席の方に向かって歩いてくる男の人が見えた。麻弥が手を振ると、彼も手を振り返した。彼は麻弥の隣に座って私に挨拶をした。
「初回の子?初めまして、勇也です」
お互いに会釈を交わすと、勇也くんは麻弥に付きっきりなってしまった。暇だなあなんて、天を泳いでいると隣に人の気配を感じた。隣を見ると、勇也とは真反対の見た目の好青年が座っていた。
「初めまして、葵です。勇也さんのヘルプに付いてて、もし良ければ僕とお話しませんか?」

この瞬間、私はホストに堕ちた。

毎日のように通い詰め、葵くんを指名し、同伴アフターは勿論、プライベートでも会うような仲になった。
「僕のことこんなに指名してくれるのは君だけだよ。ほんとにいつもありがとね。」
そうやって笑ってくれる葵くんが見たくて、どんどん入れるお酒の金額は大きくなっていった。一ヶ月も経った日には身体も重ね合わせた。もう彼のことは何でも知り尽くしたし、彼のことを一番好きなのは私だと思っていたし、彼も私が一番好きだと思っていた。


「ごめん、俺」
一人で買い物をしていた時にたまたま見つけた葵くんに、声をかけようと思って気付いた。彼の隣にいた女の存在。彼の一声で気付いた。私と会う時とは違う一人称。彼と女を見て気付いた。恋人繋ぎで重なった二人の掌。二人の手を見て気付いた。薬指に輝く指輪。

あの時私は我に返って、ホストクラブに通うのを辞めた。けど、まだ彼を忘れられたわけじゃない。彼は当時、歌舞伎町に住んでいた。彼にまとわりついていたあの街の匂いは、そう簡単に消えない。

私は今日も明日も、歌舞伎町の匂いを自分につけて外に出る。

「香水」

8/31/2024, 9:59:51 AM