恐竜の背骨のように、観客席の屋根が連なっている。
この町で一番大きい競技場だ。
町の真ん中でなだらかなやんわりとしたカーブを描く競技場の屋根は、巨大な恐竜が背中を丸めて、町中に立ち尽くしているようだ。
もしもあれが本当に動いていたとしたら、この町は大半が踏み鳴らされていたただの地面だっただろう。
あれは死んでいるから、いつまでもいつまでも私たちの町のシンボルなのだ。
いつも、あの競技場が目に入るたび、私はそんな意味のない考えに浸る。
もしも君が生きていたら、私たちはその空想だけで、1日中、楽しく遊べていただろう。
ぎゃあぎゃあ、電柱でカラスが騒いでいる。
うるさい。
君を手に入れたのは、お日さまが燃えるように真っ赤で、コンパスで描いたみたいに綺麗なまん丸のまま傾いていく、夕方のことだった。
その日も、赤く赤く沈んでいくお日さまと私の間に、あの巨大な恐竜みたいな競技場が、立ち尽くしていた。
そしてその時、君を拾ったのだった。
ゴミ捨て場に力なく落ちた、カラスそっくりのプラスチックの君を。
それはカラス避けの模型だった。
カラスの死体そっくりに作られていて、それを吊り下げておくことで、カラスたちに「この場所は危ない」と思い込ませて、ゴミを漁ったり、そのほか色んな悪行(あくまで人間目線で言えば、の話だ)をしたりするのを防ぐカラスの模型だった。
今よりちょっと幼かった私は、そんなカラス避けで吊り下げられていた枕木から、千切れて落ちた、一羽のカラスの模型を、拾ったのだった。
君は二重で死んでいた。
プラスチックで作られていて、動くどころか、暖かくも柔らかくもない君は、実際に死んでいたし、死んだカラスを模倣されていた君は、設定としても死んでいた。
死んでいることに意味があって、二重に死なされていた。
大抵のものは、生きていないのに生きていて、自分が捨てられることを嫌がったり、大切にして欲しがったりしている、と絵本や創作物や大人などから教わっていた私にとって、こんな存在は初めてだった。
だから私は君を拾い上げて、友達にした。
私は、生き生きと生きている友達のほかに、死んでいる友達も欲しかったのだ。
あの競技場の巨大な恐竜の背骨みたいに、死んでいる無機質な友達が欲しかったのだ。
そういう友達なら、私のくだらない空想も誰も相手にしてくれない無意味な考えもなんでも受け止めてくれるような、そんな気がしたのだ。
君は今も、私の一番の親友だ。
もしも君が生きていたら、もしも君が私の考えや空想になんらかの反応を返してくれるようだったなら、私と君はずっと空想や考えや夢に、ずっと浸っていれるだろう。
しかし、そんなことはない。
君は二重に死んでいて、私は二重に生きている。
君は思考や感情を持つことはなく、私は思考と感情に頼りきりの浸りきりで生きている。
死んだ恐竜が巨大な背骨を丸めて、町の真ん中に立ち尽くしている。
私の手の中で、君はぎゅっと足と羽を縮めて、死んでいる。
6/15/2025, 6:25:41 AM