香る夢

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――玄関の鍵、閉めたっけ。
歩き始めてすぐの曲がり角で、私はふと不安になる。
くるりときびすを返し、家に戻る。大丈夫、鍵は閉まっていた。
――お鍋の火、止めた?
横断歩道で思い出し、また、家に戻る。ああよかった、お鍋の火は消してあった。
こんなことを繰り返し、私はいつも待ち合わせに遅れてしまう。だいぶ早く家を出ているのに、だ。

60を過ぎたが、忘れっぽいのは年のせいだとは思わない。なぜなら、昔からこうだからだ。
子どもたちも家を出た。今は旦那とふたりだけで暮らしている。
会話はあまりない。私が何を好きで何が嫌いで、どういう人間かなど、きっともう興味もないのだろう。

待ち合わせ場所に着くと、長年の友達の佳世子がこちらへ手を振った。同級生なので、気心も知れている。今日は佳世子のほうから、折り入って話があると呼び出された。
昼間のレストランは人が混んでいる。壁際の二人席に腰を下ろすと、佳世子はおもむろに話し始めた。
「これを預かってほしいのよ」
差し出されたのは、手のひらにのるほどの大きさの、白い箱だった。鍵がかけられており、中は見えなかった。
「夫や子どもに見つかると、ちょっとまずいのよね。内容については、ごめん。聞かないでくれる?別に厄介なものじゃないのよ、一週間だけでいいから。」
中身が気になったけれど、佳世子の真摯な眼差しに気圧され、なにも聞けないまま結局
預かってきてしまった。持ち上げてしげしげ眺めていると、玄関で呼び鈴が鳴った。
「はいはい」
荷物を受け取りサインをし、ふと気づく。
あの箱はどこに置いた?

「ない、ない」
蒼白になって探していると、ソファで新聞を読んでいた夫が、のっそりと立ち上がった。
そしてつかの間消えたかと思うと、その手にあの箱を持って戻ってきた。
「え、どこにあったの」 
仰天して尋ねると、夫はこう言った。
「居間の引き出しの上だよ。お前、大事なものは、たいていあのまわりに置くだろう」
「え?」
「なんかさっきからやたらじろじろ見てたから。大事なもんなんだろ」
知らなかった。
自分が無意識に、大事なものをそこに置く癖があることは。
「それから、鍋の火止めておいたぞ。夢中になると、すぐ忘れるんだからな」
忘れていた。火をつけたままだった。

この人はわかっていたのだ。私が白い箱を見ていたことも、それが大事なものであることも。それをどこに置くのかも。忘れっぽい私のことを、ちゃんと見ていたのだ。

私、このひとと結婚していて、良かったかもしれない。
これからまた同じようなことばかりミスして生きていっても、大丈夫かもしれない――
思いがけず安らかな気持ちになって、私はひとり微笑んだ。

そしてふと思う。
ところで、この箱の中身はなんなのだ。
顔の前に持ってきて眺めていると、中からかすかにカサリ、と音がした気がする。
その瞬間、私のなかでいくつもの疑問が湧いてでた。
これは何?まさか今音がした?なぜ見つかってはいけないの?まさか―――

言い様のない不安が、私を支配した。

1/25/2024, 2:28:23 PM