ずい

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『優しくしないで』

「お嬢様!?」

おめかしを手伝ってくれたメイドが声を上げた。
せっかく用意してくれたドレスを汚してしまってごめんなさい。でももう耐えられないの。
甘くてきらびやかなお茶会を抜け出して、昨日の雨でぬかるんだ森の中を走る。
あちらこちらに枝を引っかけて、ドレスと靴は泥で汚れてしまっただろう。ひどい有り様だ。

「A嬢は本日もお美しくあらせられる」
「こちらのスイーツがお好き? 奇遇ですね。私もですよ」

頭に浮かぶのは誰にでも優しい彼の言葉。今日も多くの令嬢令息に声をかけられていた。婚約者である私を一人にしたままで。

「もういやだ……!」

誰にでも優しくするくらいなら、いっそ私は、私だけには優しくしないで。

湖が見えてきた。ここを越えれば下町まであと少しだ。素性を隠してお手伝いをしているカフェ兼旅館でかくまってもらおう。
そう決意して小舟にかけた手を後ろから掴まれた。
骨張った筋肉質な指にサファイアの指輪がはまっている。
彼だ。

「どこへ行くの」
「貴方がいないところ!」
「どうして? 僕が何かしたなら謝るよ」
「貴方の、そういうところが」

嫌いなのよ、と告げる前に腕を引かれて目が合ってしまった。
眉間に寄ったしわと首もとを伝う汗。何よりもその青い瞳に戸惑いと怒りが表れていた。

「お願いだから、突然こんな場所に一人で走って行かないで。メイドの声がしなかったらどうなっていたか」

泣きそうな彼の声に、引かれるまま彼に身を委ねることしかできなかった。
走り疲れた私は気づけば屋敷の自室で眠りについていた。
意識を失う間際の彼の言葉も聞かずに。


「A嬢は君を真似るのがお好きなようだよ。スイーツは君好みのものを取ろうとして声をかけられただけ。寂しい思いをさせてしまってすまない。そう、君には下町という居場所もあるからね。明日にでもあちらにも手回しをしておこうか。二度と君が僕から離れたいなんて思わないように、ね」

5/2/2024, 12:47:40 PM