放課後の踏切は、いつも同じ音を鳴らしていた。
カン、カン、カン――と、ゆっくり世界を閉じ込めるような音。
制服姿のまま、自転車を押して立ち止まるたび、遥は思い出す。
「また明日」
あの人が最後に笑った日のことを。
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高校二年の春、遥は同じクラスの朝比奈 恒一と出会った。
窓際の席で、いつも眠たそうに空を見ている人だった。
話しかけても反応は薄いし、体育は見学ばかり。給食も半分くらい残していた。
けれど、夕暮れの帰り道だけは不思議とよく笑った。
「遥って、なんでそんな毎日急いでるの」
「だって青春って短いじゃん」
「……そっか」
その言い方が妙に大人びていて、遥は少し悔しくなる。
同い年なのに、彼だけ遠くにいる気がした。
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夏祭りの日、遥は浴衣の袖を掴まれた。
「来年も、一緒に行けるかな」
人混みの中で、恒一は珍しく弱い声を出した。
「当たり前じゃん」
遥が笑うと、彼も安心したみたいに笑った。
けれどその横顔は、花火の光に照らされるたび、少しずつ透けて見えた。
⸻
二学期に入ってから、恒一は学校を休みがちになった。
『今日は病院』
『また今度な』
短いメッセージばかり届く。
遥は何度も電話をかけた。
でも彼はいつも明るかった。
「大げさなんだよ、周りが」
「ほんとに?」
「うん。すぐ戻る」
だから遥は信じた。
信じたかった。
⸻
冬が来る頃には、恒一は制服を着なくなっていた。
病院の白い寝巻きばかり似合うようになった。
それでも彼は笑っていた。
「遥、高校卒業したら何したい?」
「えー、まだ決めてない」
「そっか」
「恒一は?」
少し沈黙してから、彼は窓の外を見た。
「俺は、先に大人になるよ」
意味が分からなくて、遥は笑った。
「何それ」
「そのままの意味」
彼は笑ったままだった。
泣きそうなくらい優しい顔で。
⸻
春になる前に、恒一はいなくなった。
遥には何も知らされなかった。
両親も、教師も、誰も。
「遠くへ治療に行った」
ただそれだけを聞かされた。
スマホは繋がらなくなり、アパートも空になっていた。
置いていかれたみたいで、遥は腹が立った。
「また明日って言ったくせに」
怒りながら、何度も帰り道を歩いた。
踏切の音だけが、あの日と同じだった。
⸻
それから六年が過ぎた。
社会人になった遥は、仕事帰りに昔の通学路を歩くことがあった。
古い駄菓子屋はなくなり、線路沿いの桜も少し減っていた。
けれど、あのベンチだけは残っていた。
そこに、一人の老婦人が座っていた。
「あの……遥ちゃん?」
優しい声だった。
どこか、懐かしい声。
「……朝比奈くんのおばあちゃん?」
老婦人はゆっくり頷いた。
「大きくなったねぇ」
その言葉に、遥は少し笑ってしまう。
自分だってもう大人なのに。
⸻
近くの喫茶店で、温くなったコーヒーを前にして。
老婦人は静かに話した。
恒一がずっと病気だったこと。
高校時代には、もう長くなかったこと。
遥にだけは最後まで知られたくなかったこと。
「かわいそうな顔をされたくないって、あの子、最後まで言ってた」
遥は何も言えなかった。
音だけが遠くなる。
世界が、水の底みたいにぼやけていく。
「亡くなる前の日ね、“遥は笑ってるかな”って聞いてたよ」
その瞬間、遥の中で止まっていた時間が、ようやく壊れた。
⸻
帰り道、踏切が鳴っていた。
高校生たちが笑いながら通り過ぎる。
制服の裾が春風に揺れていた。
遥は立ち止まり、目を閉じる。
――俺は、先に大人になるよ。
あの言葉の意味を、今になって知った。
知らないままでいたかったのに。
カン、カン、カン――
踏切の向こうに、制服姿の恒一が立っている気がした。
「また明日」
あの日と同じ声が、耳の奥で笑う。
遥は泣きながら、小さく頷く。
「うん。また明日」
もう二度と会えなくても。
忘れられないね、いつまでも。
5/9/2026, 10:38:11 AM