彼女はよく手紙を書く。
手紙といえば大袈裟だが、それでもかわいらしいデザインの一筆箋やメモ用紙で書き置きを残すのだ。
冷蔵庫におやつを入れたとか、帰宅時間とか、ねぎらいの言葉とか簡素な内容である。
リビングのテーブルに置かれたメモ用紙には、アサガオの花がデザインされていた。
『いつもお疲れさまです。冷蔵庫にビタミン剤入れておきました。でも、きちんと寝てください。』
いつもの気安い口調はなく、丁寧な文体でまとめられている。
几帳面に整えられた彼女らしいきれいな書体だ。
しかし、水分を含んでたわんで波打った用紙。
ところどころインクが滲んで文字がぼやけていた。
いつもと状態の違う書き置きに心臓が嫌な音を立てる。
「え……」
彼女は滅多に泣き顔を俺の前で晒すことはなかった。
こんなあからさまに涙の痕跡を残すほど、俺はなにかやらかしてしまったのだろうか。
バクバクと激しく血流が脈打って胸が苦しくなった。
彼女の話をしようにも、もう夜はふけている。
眠っている彼女を起こしてまで問いつめる気にはなれなかった。
*
翌朝、普段と変わらぬ様子の彼女が寝室から出てきた。
いても立ってもいられなかった俺は、彼女をソファに座らせて抱き抱える。
戸惑う彼女にかまうことなく、悲しい思いをさせたことを謝り倒した。
ひと通り俺の話を聞いていたが、彼女はきょとんと首を傾げている。
「ごめん、全然身に覚えがない」
「でもアサガオのメモ帳……涙で滲んでました」
「は? それ、私の話であってる?」
「真面目に話してるのに、怖いこと言うのやめてください」
水分を吸って不自然に固くなってしまった用紙。
涙の波にさらわれたぼやけた文字。
直接見せたほうが早いと思い、昨日のメモ用紙を彼女に手渡した。
「本当だ。でも、ガチで泣いてないし……。って、あぁー……もしかして、お風呂あがってすぐ書いたからかも」
「風呂、ですか?」
彼女いわく、風呂からあがったあと書き置きしておこうと思い立ったらしい。
湿度のこもった肌に触れて用紙が波打ち、前髪かどこかから水滴が落ちてきたのかも、とのことだ。
言いわけには苦しい気もするが、嘘をついている感じもない。
なにより、素っ裸で家の中を歩き回る彼女ならやりかねなかった。
「本当に? なにか悲しかったり我慢してたりすることないですか?」
「我慢……」
俺の言葉を反芻しながら、彼女はメモ用紙を返す。
その後、こてん、と自分の頭を俺の胸に預けてきた。
「……今日、起きたらベッドにいなかった」
「は?」
グリグリと額を押しつけ、彼女が拗ねているときの動作をする。
「昨日、一緒に寝るって言ったのに、……いたの、わかんなかった、から。ちょっとだけ、寂しかった……」
ギュンッと心臓を鷲掴みにされて呼吸困難になるところだった。
か、わいいな、もう……っ!
「…………それは、すみません」
忙しなく動く自分の心音を宥めようと大きく深呼吸をする。
そして、だらしなく緩みそうな口元をなんとか引き締めた。
「今日は、一緒に眠りましょうね?」
コクリ。
言葉なくうなずく彼女を俺はきつく抱き締めた。
『波にさらわれた手紙』
8/3/2025, 8:27:02 AM